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日記一覧

焙烙街道39 秋に咲く桜
2015年10月28日23:12

岩作宮後(やざこみやうしろ)にある石作神社(やざこじんじゃ)の拝殿は丘陵上の平地に南南西向きに設置されているのだが、空は充分に明るいものの、10月下旬夕刻の拝殿にはすでに社叢の影が落ちていた(写真左)。本殿の西側にはさまざまな境内社が本殿と同じ向き

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本地ヶ原神社(ほんじがはらじんじゃ)の鳥居をくぐると、正面30m以内に本瓦藁葺入母屋造で白壁を持つ拝殿に上がる幅も踏面も広い石段下に至った(写真左)。白ら壁にはシミ一つ無区、まだ新しい社殿だ。社殿は拝殿と言うよりは堂で、階段の両脇には石灯籠が一対

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焙烙街道32 カニとワニ
2015年10月21日23:40

猪子石神社(いのこしじんじゃ)の真北240mあまりの場所に「和示良神社」という妙な名称の神社があるので、向かった。この神社のある場所が猪子石原1丁目なので、この神社を祀った村から猪子石原(いのこいしはら)は始まった可能性がある。和示良神社の社頭は南

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猪子石神社(いのこしじんじゃ)の石段を上がると、1段だと思っていた土壇の上に石垣を組んだもう1段の土壇が組まれていた(写真左)。玉垣はその土壇の上に組まれた瑞垣だった。その瑞垣の真ん中に猪というよりは鯨の背中のような焼けた石の背中と庭師が形を整え

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香流(かなれ)の行者堂から焙烙街道(ほうろくかいどう)を北上すると、90mあまりで、香流川(かなれがわ)に架かった中島橋(なかしまはし)に差しかかる(写真左)。かつては香流川の南岸の一帯は「猪子石(いのこい)」、北岸は「猪子石原(いのこいしはら)」と呼ばれ

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消防団施設の南隣の敷地には、ほぼ中央部に焙烙街道(ほうろくかいどう)の通っている東北東を向いた背の高い瓦葺棟入りの堂があった(写真左)。こうした堂の規模にはやや不釣り合いな高い石段を持った堂には役行者が祀られていることがある。敷地の南端にある樹

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大石神社の牝石(めいし=猪子石)は幕末前後の地誌『尾張名所図会(おわりめいしょずえ)』の挿絵「猪子石 蓬莱谷(よもぎだに)」に描かれている(図版左)。だが,「猪子石 蓬莱谷」には、もうひとつかなれ川(香流川)を挟んで手前(北)岸に「牡石(おいし)」が書き

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平和公園アクアタワーのそびえる丘陵の北側を東西に流れる香流川(かなれがわ)の両岸は1970年代前期までは水田地帯であり、1980年代までは「猪子石(いのこし)」と呼ばれていた。地名としては消滅した「猪子石」だが、その名称は現在も学校名、交差点名、マンシ

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尾張藩七代藩主徳川宗春の巨大な墓碑の右隣には建中寺墓地の中でも異例の石柵の塀の巡らされた一画があった。おそらく、尾張徳川家でも初期の藩主の墓所だろうと覗いてみると、墓碑の前に鮮やかに青く塗られた富士山の陶器が置かれていた。花立てが見当たらな

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敗戦前年の1944年に敗戦の可能性を察知した日本人は大勢いた。そのうちの一部は職能柄、物資の枯渇した列島で米軍と通じて印刷用紙を確保し、戦後、いち早く芸能月刊誌を発刊した。そんな生き馬の目を抜く集団(陸軍情報部)もいたのだが、内務省の官僚だった大

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自由ヶ丘の御嶽神社(おんたけじんじゃ)の東端には三十六童子を祀ったスペースがあって、三十六童子を参拝するには境内からではなく、御嶽神社道側から向かうしかなかった。もっとも三十六童子に参拝する人はこの三十六童子に涎掛けを縫って、願掛けをする人く

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自由ヶ丘の御嶽神社(おんたけじんじゃ)の清覚霊神を中心とした三霊神の祀られた右隣(東側)には稲荷社が祀られていた(写真左)。この稲荷社の本殿は3つの扉を持ち、両側に別の社を持つので、伏見稲荷大社と同じ、以下五柱を祀っていることになる。・宇迦之御魂

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自由ヶ丘の御嶽神社(おんたけじんじゃ)一ノ鳥居をくぐると、参道はすぐ左(西)に直角に折れ、左右に石灯籠や常夜灯の並ぶ奥に東向きに石造の伊勢鳥居が立っており、周囲には石造、霊神碑が立ち並び、その奥に塚が立ち上がっている(写真左)。石の隙間から繁殖し

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月ヶ丘 御立大師前から焙烙街道(ほうろくかいどう)を東に向うと、70mあまり先の右側(南側)に墓地の覗くコンクリート塀の切れ目があり、そこからさらに20m以内に塀越しに堂らしき建物の屋根が見えた。それで、塀の切れ目まで戻り、その建物を観に行った。墓地

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月ヶ丘の覚王山新四国88ヶ所の奥の列の西の端には石碑類が集められていた。(写真左)その中でも最も西端にあったのが「関東大震災横使者追悼之碑」と刻まれた高さ4m近い板碑だった。昔は彼方で起きた災害に対しても隔地でこうした追悼碑を建てることもあったと

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日泰寺奉安塔(にったいじほうあんとう)敷地内の覚王山新四国88ヶ所は奉安塔の裏面だけではなく、西側にも奉安塔の回廊に沿って回り込んでいる。この部分の参道は長い踏み面を持った石段になっていて、緩やかに下り、20mほどで森に突き当たり、行き止まりにな

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日泰寺奉安塔(にったいじほうあんとう)の裏面に祀られた覚王山新四国88ヶ所は釈迦の遺骨を空海が守護しているかのような配置になっている。ここの堂の役割は仏を奉るスペースだけではなく、毎月21日の弘法大師の縁日(全国共通)に参拝に訪れる人が接待されるよ

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下方町(しもかたちょう)道標前で四観音道(しかんのんみち=笠寺街道)を越えて焙烙街道(ほうろくかいどう)はさらに東に向うが、20mあまりで県道30号線を越えると、左手(北側)は下水道局の石垣、右手(南側)は日泰寺奉安塔(にったいじほうあんとう:釈迦の遺骨実

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