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日記一覧

下り松遺跡の西北西2.6kmあたりに位置する花井方熊野社に向かった。この神社は神社庁に所属していないようで、Googleマップには社名が表記されていない神社だった。社地の北側を東西に延びている県道145号線で接近すると、左手(南側)の水田地帯の中に玉垣で囲

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10月中旬下り松遺跡の北北西1.7km以内に八幡社があるので、向かった。それは大和町に位置するが、130年前の地図を見ると、現在の社地の広さは当時の社地の1/5ほどになっている。社地に近づくと、周囲は住宅で埋まっていた。かつての社頭は南側にあって、石造

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石段の麓から銅板葺の社殿を見上げると、本殿を見せるように格子戸の目が粗くされている(写真左)。格子戸の向こう側の本殿には明るい日射しが当たっている。本殿を見えやすくしているのは珍しいことだ。格子戸の向こう側に部屋は無さそうで、やはり祭文殿では

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10月下旬 晴天下り松遺跡の真北2.4km辺りにある大神社(おおじんじゃ)に向かった。尾張國一之宮大神神社(おおみわじんじゃ)に参拝した後日のことだったので、地図上の「大神社」という表記を見つけた時には「大神社(おおみわしゃ)」だと解釈していた。社頭は

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真清田神社(ますみだじんじゃ)の神池に渡された石橋を北に位置する島に向かって渡ると,石段上に朱塗りの厳島社と素木造の八龍神社が祀られている。厳島社(写真左)と八龍神社(写真中)の社号標は同格のように設置されていたが、参道の方から社の祀り方を見ると

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真清田神社(ますみだじんじゃ)本殿の鰹木を数えようと、航空写真をかなり拡大してみたところ、本殿の裏面の社叢の中に「三明神社」という表記が表れることに気付いた。名称からすると明神が3柱合祀されているものと思われた。念のため、『真清田神社』の公式

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真清田神社(ますみだじんじゃ)拝殿前右脇に『御由緒』の立て札が立てられており、この由緒には祭神に関する二つの情報が含まれている。・「祭神 天火明命」・「天火明命は天孫瓊瓊杵尊(※ニニギ)の御兄神」※AYU注天火明命を天孫瓊瓊杵尊の御兄神としている

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10月初旬馬見塚遺跡(まみづかいせき)の北2kmあまりに位置する、尾張一宮真清田神社(ますみだじんじゃ)に向かった。真清田神社に向かうのは4度目のことになる。前の日記の三社にはhttps://mixi.jp/view_diary.pl?id=1969209678&owner_id=350761真清田神社の御

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両郷町(りょうごうちょう) 愛宕社の本殿を観るために、祭文殿を迂回しようとしたが、最上段の壇にはそのスペースが無かった。本殿を観るために一つ下の段に下りることにし、その前に最上段から佐野遺跡方向を眺望すると、眼下の大赤見の街並は住宅で埋まって

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両郷町(りょうごうちょう) 愛宕社の階段状ピラミッドに登る正面の階段を上がった(写真左)。東京の等々力渓谷周辺では、古墳時代から現代に至る石組みが観られるが、美しい石垣は古墳時代〜江戸時代末期のものとみられる石垣だ。明治期を過ぎると、石垣はどん

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両郷町(りょうごうちょう) 愛宕社の拝殿を迂回して奥に進むと、拝殿の裏面には階段状ピラミッドが立ち上がっていた(写真左)。拝殿とピラミッドの間には10mあまりの空間があり、拝殿からピラミッドに登る石段に至る中心軸の中央にトタン葺の賽銭箱が通せんぼ

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赤見國玉神社(あかみくにたまじんじゃ)の拝殿を迂回すると、拝殿の裏面に入ることが出来るようになっていた。そこからは10m近く先の荒くれた巨石を1.8mほどの高さに組んだ基壇上に鉄筋造の祭文殿が設置されている(写真左)。この祭文殿、正面のガラス格子戸は

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赤見國玉神社(あかみくにたまじんじゃ)の拝殿前で切り妻の妻飾りを見上げて驚いた。その手の掛け方が、これまで尾張で観てきた多くの神社の中で、抜きん出て凄かったのだ。この拝殿の主棟鬼飾(鬼瓦)は雲水の中に浮かぶオーラを放つ宝玉のシルエットの中に社名

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浅野白山社『無形民俗 水法(みずのり)の芝馬祭(しばうままつり)』の案内書にはこうあった。「愛知県指定文化財              昭和59年3月30日指定  芝馬祭は、浅野水法白山社に伝承されている子ども(男子)を中心として行われる祭礼.祭礼日は

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浅野白山社の祭文殿の西側には本殿と同じく、南向きに熱田社が祀られていた(写真左)。境内社だが社号標、石畳の参道と社地を囲う生け垣、自然の巨石を組んだ基壇を持ち、銅板葺素木造の社が祀られている。祠の軒下には立派な自家製の注連縄が下がっている(写

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浅野白山社の表参道に設置された二ノ鳥居をくぐり、両側に並ぶ石鳥居の間を抜けると、アスファルトの参道は尽き、石造の藩塀の前に出た(写真左)。この藩塀は、ここから東南東1.9kmに位置する千秋町 日吉神社の藩塀と同じ石材店の手によるものだ.あるべき装

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10月中旬 曇天 厚手のトレーナーを重ねる必要がある気温だった。前回、佐野遺跡のある一宮総合運動場を探している時、偶然、長い参道を横切って、興味を惹かれた浅野白山社に向かった。やはり、一宮総合運動場をを探している時に社頭を通りかかった小渕天神

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佐野遺跡案内板によれば,佐野遺跡は縄文時代中期(約5000年前)〜弥生時代時代中期(約2100年前)の遺跡で、標高約10mの木曽川扇状地にほど近い沖積平野に立地した遺跡とある。佐野遺跡案内板には現在も一宮総合運動場を南北に縦断して流れている千秋用水の発掘

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花岡神社から西北西に位置する多賀神社に向かっていると、880mあまりの場所で玉垣と石鳥居が目に入った。ここは本町というが、尾張一ノ宮真清田神社(ますみだじんじゃ)の南190m以内に位置する門前町の一画だ。境内は50cmほど道路より上げてあり、玉垣沿いには

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森本 十二所神社の西北西260mあまりに位置する同じ森本の六所神社に向かった。六所神社は西側を南北に流れる大江用水沿いの一般道に面し、社頭の東10m以内を幹線道路が南北に走っている。この日は熱暑で、日射しは今夏外出した中でも最強で、愛車に積んでいる

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森本 十二所神社の祭文殿は瓦葺平入の社殿だった。この神社には拝殿が無いので祭文殿が拝殿を兼ねており、賽銭箱は基壇に上がる石段の麓脇に設置されている。石段を少し上がって格子戸を透かして本殿を見ると、その基壇の石組みは祭文殿基壇の石組みより新し

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丹陽町(たんようちょう) 八幡神社の拝殿前で左右に別れた石畳の参道は拝殿の基壇の左右を抜けて奥に延びている(写真左)。拝殿前には砂利が敷きつめられており、参拝者はそこに降りて献灯台の脇を通り抜けて拝殿の石段を上がることになる。拝殿は瓦葺吹放し棟

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丹陽町(たんようちょう) 八幡神社の表参道の途中に枝葉を広げている大楠は近づいてみると、枝の張り方から想像していたより、幹は太くなかった。社頭から続いていたアスファルト舗装の参道は参道の左右から根を張っている楠のせいで、途切れ、盛り上がってお

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阿豆良神社(あずらじんじゃ)祭文殿〜拝殿の西側の社地の端には社殿と平行に10mあまりの長さの高さ50cmほどに玉石を組んだ石垣の基壇が設けられ、その上に社殿の方を向いた7棟の銅板葺素木造の境内社が祀られていた。(写真左)基壇の裏面には生け垣が設けられ、

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阿豆良神社(あずらじんじゃ)の藩塀を迂回すると、本瓦葺の拝殿が高さ50cmほどに巨石の石垣を巡らせた基壇上に祀られていた。(写真左)は藩塀のすぐ奥に設置されていた献灯台の屋根越しに撮影したものだ。拝殿のガラス戸も格子窓も磨りガラスがはまっている。拝

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せんい服織神社(はとりじんじゃ)から馬見塚遺跡(まみづかいせき)の南600mあまりの場所にある阿豆良神社(あずらじんじゃ)に向かった。阿豆良神社のある町、「あずら」はオフィス街を通り抜けて住宅街の中にあり、周囲にもう田畠は見当たらない。阿豆良神社は角

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『愛知県埋蔵文化財センター 研究紀要 第13号』(2012.5 川添和暁・鬼頭 剛)の情報を元にして、馬見塚遺跡の立地や遺跡形成の様相を整理してみる。馬見塚遺跡(まみづかいせき)を初めて発見したのは、森徳一郎という人物だった。大正時代末の当時までは、

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愛知県西部、犬山扇状地から尾張低地帯にかけては、散発的に縄文時代の遺跡が確認されている。愛知県の西部には濃尾平野が広がり、陸側から海側(伊勢湾)にかけては扇状地から三角州へ地形が移行している。その地形上に縄文時代の遺跡が確認されている。馬見塚

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7月下旬、三ツ井遺跡の北西2.6kmあまりの地に馬見塚遺跡標柱(まみづかいせきひょうちゅう)があるというので、探したのだが見つけられなかった。日本国内の遺跡情報を一覧できるウェブサイト 『遺跡ウォーカーβ』(http://www.isekiwalker.com/)の 「馬見塚遺

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いぼ地蔵尊周辺に目的の塩道神社は無さそうなので、途中で老婆が示した県道149号線の向こう側(南西側)にあるという塩道神社を地図で探し出した。それはいぼ地蔵尊の南西280m以内に位置していた。千秋町 神明社からいぼ地蔵尊に戻り、149号線を南西側に渡って

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