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日記一覧

亀首町 熊野神社の境内の西の端には2体の軍人の等身石像が設置されていた。上記写真の軍人石像は帽子が明治期の陸軍のもので、右手に手袋、左手で軍剣の柄を抑えている。その髭と風貌から乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将だと思われる。今や、乃木坂48のグル

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伊保町 白山神社の覆い屋前まで上がると、屋内にあったのは鰹木・千木を乗せた銅板葺流れ造の本殿だった(写真左)。この形式の社は三河西部特有の特徴であることが解ってきた。そして、現在までのところ本殿に限られ、境内社では例が無い。だから、鰹木・千木

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いぼ塚から130mあまり南西を流れる伊保川(いぼがわ)を観に向かった。向山橋(むかいやまばし)から伊保川の上流側を見下ろすと、水量は豊富で川幅は高水敷を含めると40m以上ある(写真左)。北岸(写真左-右側)の堤防上には道路が通っているが、南岸(写真左-左側)

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貝津神社から南の焙烙街道(ほうろくかいどう)に戻り、東に480mあまりの場所で右折して畑地と住宅街の間を抜ける道を南に80mほど進むと、社地の西側に出た。社頭を探して、さらに80mあまり南に向かうと、まだ新しい南南西向きの石造明神鳥居の前に出た(写真左)

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石段の上の北野天満宮の神門と塀は神社よりも寺院の匂いのするもので、前面の塀に葺かれた本瓦の上に側面の塀に葺かれた本瓦が重なっているという、おもしろい造形の出来上がりになっていた(写真左)。素木造の格子戸の付いた神門には短いが左末、右本のメリハ

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11月の初旬 晴貝津町 日守神社に参拝した後、焙烙街道(ほうろくかいどう)に戻り、焙烙街道の北50mあまりの場所にある貝津神社に向かった。社頭には南南西向きの石造明神台輪鳥居があり、鳥居の両翼には路地に沿う1mほどの高さの石垣の上に玉垣が巡らされて

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11月の初旬 快晴貝津町 日守神社の後、寄ろうと思っていて忘れてしまった開豊神社(かいほうじんじゃ)に向かった。日守神社裏口から、さらに蛇行する急坂を南に向かって登って行くと460m以内の右側に社叢が現れたが社地は道路より40cmほど上げてあるものの、

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篠原町 八柱神社拝殿の西側には参道の方を向いた金刀比羅神社が祀られていた(写真左)。境内に設置された『社記』にこの神社のことが記されていないので、『社記』碑の建てられた昭和60年より後に、ここに合祀された神社のようだ。石段の麓を見たかったので、

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焙烙街道78 八柱=ハル
2015年12月14日23:10

射穂神社(いほじんじゃ)の北北西1.3km以内、焙烙街道(ほうろくかいどう)の西180mあまりの場所にある篠原町 八柱神社を見落としていたので、篠原町に向かった。焙烙街道の北東1.5km以内にあるゴルフ場内にある池から下って、焙烙街道の西側に沿って流れている

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2012年に晴れて豊田自動織機チームに入部したものの、2013年9月から今年7月まで、ほぼ2年近い競技ブランクのあった横江里沙選手が、クィーンズ駅伝5区に出場。クィーンズ駅伝は東北・宮城の6区間を舞台に全日本実業団女子チームが激突する駅伝競走大会だ。こ

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焙烙街道76 洞穴と片峠
2015年12月11日01:25

聖観世音菩薩の奉られた平地とは反対方向の東に向かって登って行く通路が気になったので、分岐点にまで戻り、反対方向に向かうとすぐに、左手(北側)の土手に洞穴があるのに気付いた。(写真左)状況から、役行者が奉られているかもしれないと思った。洞穴に向か

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聖観世音菩薩の裏面の馬頭観音像の右隣には、おかめと観世音菩薩の鉄造の鋳物の面が奉納されていた。伊保 IBO鋳物 IMONO挙母KOMO   ※現実にはそうは読めない「KOROMO」と読まれているかつては商売屋などの縁起物として装飾されていたりした

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観音道のことを調べてみたが、名称と存在していること以外の情報が無く、貴船神社が地図に表記が現れるのも戦後のことのようで、観音道に至っては1996年度の地図を見ても道の表記がされていない。小道なので表記が無いのか、まだ存在しなかったのか、はっきり

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焙烙街道71 イボ
2015年12月05日23:40

射穂神社(いほじんじゃ)から焙烙街道(ほうろくかいどう)に戻り、東に800mあまり辿り、真北に向かう路地に入った。この路地の先のどこかに伊保塚(いぼづか)というものがあるのをネット情報で知ったからだ。IHO 射穂神社IBO 伊保川IBO 伊保塚伊保川

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佛牙山 了喜院の祠(写真左)の天幕の奥には石仏が祀られているのだろうと想像していたのだが、祠内を見ると、奇妙なものが祀られていた。それは衣冠束帯姿の神像と思える石像だったが、体に比較して頭部が異様に大きな像だった(写真中)。しかも、その表情や衣

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