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2019年10月06日09:29

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本棚202『哲学な日々ー考えさせない時代に抗して』野矢茂樹(講談社)

「哲学の核心はその問題にある。いかに生きるべきか。どうすれば正しい知識を得られるのか。自我とは何か。私は自由なのか。自由とはどういう意味なのか。いまだ正解と呼べるものは見出されていない。誰もが答えの途上にある。抱え込んだ問いに揺さぶられつつ、次の一歩を探り当てようとしている。問いの緊張に射抜かれていない言葉は、哲学ではない。」

 哲学はなんのために学ぶのかー難問ではあるが、新聞の連載を中心とした本書の語り口は簡潔でわかりやすい。
 目的に向かって前のめりに走り続けるのではなく、立ち止まって問い直す哲学の姿勢は、広い視野と柔軟性をもたらす。その方法も、知識を身につけることよりも、岩登りのようにひとつひとつ自分の頭で考えてゆくことに重きをおく。著者は哲学の師匠、大森荘蔵の議論を誘うような授業から「哲学することの手ざわり」を伝えられたと言うが、本書でも具体の哲学問題から、自らの頭で批判的に考える、スリリングな哲学の世界の一端を覗くことができる。

 また、話は哲学にとどまらず、論理の必要性や国語教育にも及ぶ。
 論理的な文章を書くためには、接続表現をしっかりと使いこなすことが大切であると著者は説く。読み手の問いに応える形で、「つまり」、「なぜなら」、「しかし」等々の接続表現を意識的に用いることで、モノローグから対話型の文章になるという。
 自分は、論文や法令のような硬い文章よりも、小説やエッセイのような「美しい」文章が好きだけれど、時に美しい文章は、感覚的·情緒的で、読み手に伝わらない非論理的な文章になると肝に銘じておきたい。
 中学の国語の教科書づくりにも関わっている著者は、名文鑑賞の「文学」と実用的な語学としての「国語」とを別立ての科目にすべきと考える。後者では、文章を要約する力や、過不足のない適切な内容を順序立てて述べる力などを身につける。
 この考えには賛成だけれど、生き生きとした名文に子どもたちが触れる機会をしっかりと確保せず、実用一辺倒の無味乾燥な文章だけが幅を利かすような事態にならないよう、適切なバランスを取る必要があると思う。国語教育についての先月の毎日新聞の社説が正鵠を射ていると思うので記しておきたい。中学の国語の教科書で、長野まゆみさんの『夏帽子』や俵万智さんの『かすみ草のおねえさん』などに出逢って、文学に誘われた者としては、心から共感を覚える。

「文学は人間の存在と密接にかかわる。多感な時期に、教科書で出合った文学作品が呼び水となり、人生の新しい扉を開くきっかけになることもある。教科書から文学作品が少なくなることで、その機会も減ることになりはしまいか。···話や文章の行間を読み取り、他者の立場を想像することが、人間社会を豊かにし、コミュニケーションを円滑にする。それこそ、文学によって養われる力ではないだろうか。」
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