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2018年12月03日09:10

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「仏法に近代ということはありません」

昨日(2018.12.2)の東京新聞は、読書欄に鈴掛真さんの『ゲイだけど質問ある?』(講談社)が大きく取り上げられ、歌壇の佐佐木幸綱選月間賞では野上卓さんの作品が、俳壇の小澤實選月間賞でも同じく野上卓さんの作品が掲載されていて、“短歌人祭り”(言うことがちょっとオオゲサですが…^ ^:)のような紙面であった。

その中で、目立たないコラムだが、そして短歌人とは関係のない話なのだが、中村薫さんの「今週のことば」で紹介されていた、「仏法に近代ということはありません。あるのは末法であります」という言葉が目に止まった。真宗の藤元正樹師の言葉だそうだ。

なるほどそうか。そう言われてみればたしかにそうなのだが、今までそんなふうに考えたことはなかったなあ…、と立ち止まってしまったのだった。

正法のち像法のち末法。われらはほぼ永続する末法の世にある。途方もない彼方に弥勒菩薩さまが現れる、というお話だったと思う。こんなふうに思えば「近代の超克」も何もない。そもそも「超克」という発想自体が近代の所産だったのではないか、などということを改めて思ったのだった。

見田宗介さんのように、高原の時代が近づいていると説く向きもあって(*)、末法史観とは対照的なのだが、眼前にこの両説が置かれたら、僕は末法の方に親しみを感じる。

もとより人の世は人類絶滅に至るまでなんだかんだと揉め事が続くのだろう。それは、自然から離陸してしまった妙な存在の宿命なのかも知れない。そして、理念から世界へ舞い降りず、地べたのすったもんだに就くのがマテリアリズムというものなのだろう。とすれば、マテリアリズムに親しいのは高原ではなく末法であろう。中村さんのコラムを読んで、そんなことを考えたのだった。

(*)https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1969272506&owner_id=20556102


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