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2018年05月30日00:34

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『人形の家』と『蓼喰う虫』――自我と人形

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『人形の家』と『蓼喰う虫』。この二作品は対をなすような関係にある――というか、おそらく谷崎は『人形の家』のパロディ的批評として『蓼喰う虫』を書いたのではないかと思われる。

イプセンでは人形のように可愛がられる状態から一人の人間としての自我に目覚める女性の姿が描かれるが、谷崎では近代的自我に目覚めた妻に対して不能になった主人公が自我を持たぬ文楽人形のような芸者に惹かれていく姿が描かれる。

「思うに昔の遊里の女は芝居でやるような著しい喜怒哀楽を色に出しはしなかったであろう。元禄の時代に生きていた小春は恐らく「人形のような女」であったろう。事実はそうでないとしても、とにかく浄瑠璃を聴きに来る人たちの夢みる小春は梅幸や福助のそれではなくて、この人形の姿である。昔の人の理想とする美人は、容易に個性をあらわさない、慎み深い女であったのに違いないから、この人形でいい訳なので、これ以上に特長があっては寧ろ妨げになるかも知れない。昔の人は小春も梅川も三勝もおしゅんも皆同じ顔に考えていたかも知れない。つまりこの人形の小春こそ日本人の伝統の中にある「永遠女性」のおもかげではないのか。……」(谷崎潤一郎『蓼喰う虫』)

『細雪』の雪子は、『蓼喰う虫』の「お久=小春」の延長線上に成立した「日本の女性の永遠のオブスキュリティーの象徴」(三島由紀夫)だが、谷崎の凄さは、白樺派の流行に代表されるように日本において近代ヒューマニズムが一つの絶頂に達していた大正時代に、ただ一人「近代」も幻想に過ぎないことを逸早く洞察していたことにあるのかもしれない。

「文学を以て文学を守るなんて、もともとできない相談だということを、最初からみごとに洞察していたのは谷崎だった。だから、戦わずして負けて、女に踏まれて、御馳走をたべていた。谷崎は自分の自我はおろか、良心さえ守ろうとはしなかった。その態度があの人の不戦勝を成功させたのです」(三島由紀夫『人間と文学』)

以来、谷崎は、ヒューマニズムやマルキシズムといったあらゆる時代ごとの流行思想に無関心に、彼にとっての「理想の女性」を造形することを芸術上のカテキズムとして、ひたすら芸術的研鑽のみに集中した。そこから谷崎の無思想性という批判も起こって来るのだが、何もかも過ぎ去った今となっては、そういう谷崎の「思想」なるものに対する超然たる態度が、逆に近代日本における「思想」にいかほどの実体があったかというラジカルな批判として機能していたようにも見えてくるのである。そしてそのラジカルな批判は、ノラと雪子のどちらが「幸福な存在」であるか――という問いとして未だに我々の前に置かれたままである。
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