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2018年01月04日22:25

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日本人としての西郷/アジア人としての西郷

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今年の大河は西郷さんということで、各種便乗本が企画されているけど、内村鑑三の『代表的日本人』や橋川文三の『西郷隆盛紀行』のように、後々まで読み継がれるべき新しい西郷論は果たして登場するだろうか。

内村鑑三は『代表的日本人』で、西郷隆盛を、途轍もなく強い精神を持った人間であると同時に、途轍もなく弱い心を持った人間として描き出している。ドストエフスキーの人物に例えれば、スタヴローギンとムイシュキンを一身に体現した人物――そのように内村鑑三は西郷を描いている。必要とあればこの上なく冷酷非情な陰謀家になれる一方で、自分を慕う血気にはやった若者たちへの同情心から破滅は目に見えていながら身を預ける底なしの人情家――それが内村の西郷像である。

そういう西郷の、通常の合理的感覚ではほとんど了解不可能な二面性(革命性と反動性の堂々たる同居)を捉え、橋川文三は西洋思想史上における「ルソー問題」に重ね合わせるかたちで、その早い晩年の名著『西郷隆盛紀行』で「西郷問題」を提起している。ここで橋川は、西郷に託してもう一つのありえたオルタナティヴな「近代日本」の姿を模索しているようである。

そして、橋川の好敵手であり、また「精神的双生児」とも評される三島由紀夫は、これもその早い晩年に次のような西郷に関するエッセイを書いている。

「西郷さん。
 明治の政治家で、今もなお「さん」づけで呼ばれている人は、貴方一人です。その時代に時めいた権力主義者たちは、同時代人からは畏敬の目で見られたかもしれないが、後代の人たちから何らなつかしく敬慕されることがありません。
 あなたは賊として死んだが、すべての日本人は、あなたをもっとも代表的な日本人として見ています。
 恥ずかしいことですが、実は私は最近まで、あなたがなぜそんなに人気があり、なぜそんなに偉いのか、よくわからなかったのです。第一誰にも親しまれているこの銅像すら、私にはどうにもカッコイイものとは見えず、お角力さんにグロテスクなものしか感じない私ですから、こんな五頭身や、非ギリシア的肉体は、どう見ても美しく感じられなかったのです。これもまた日本人の肉体音痴の一例だろうと、もっぱらボディ・ビルダーの見地から、首をひねっていたわけであります。
 私には、あなたの心の美しさの性質がわからなかったのです。それは私が、人間という観念ばかりにとらわれて、日本人という具体的問題に取り組んでいなかったためだと思われます。私はあなたの心に、茫漠たる反理性的なものばかりを想像して、それが偉人の条件だと考える日本人一般の世評に、俗臭をかぎつけていたのです。
 しかし、あなたの心の美しさが、夜明けの光りのように、私の中ではっきりしてくる時が来ました。時代というよりも、年齢のせいかもしれません。とはいえそれは、日本人の中にひそむもっとも危険な要素と結びついた美しさです。この美しさをみとめるとき、われわれは否応なしに、ヨーロッパ的知性を否定せざるをえないでしょう。
 あなたは涙を知っており、力を知っており、力の空しさを知っており、理想の脆さを知っていました。それから、責任とは何か、人の信にこたえるとは何か、ということを知っていました。知っていて、行いました。
 この銅像の持っている或るユーモラスなものは、あなたの悲劇の巨大を逆に証明するような気がします。
 …………………………。
 三島君。
 おいどんはそんな偉物(えらぶつ)ではごわせん。人並みの人間でごわす。敬天愛人は凡人の道でごわす。あんたにもそれがわかりかけてきたのではごわせんか?」(三島由紀夫「銅像との対決――西郷隆盛」)

このエッセイで三島は、 「人間」という抽象的観念に「日本人」という具体的問題を対置させ、「日本人」を象徴する人物像として西郷を捉え直しているわけだが、明治以来意識的な日本の文人が逢着せざるをえない「日本への回帰」という主題について書かれたものとして、この文章はそのほとんど素朴と言ってもいい語り口で際立っていると思う。

「人間」と「日本人」を対置させて、そのどちらを選ぶかは、明治以来、意識的な知識人を悩ませ続けてきたアポリアで、三島と同世代の詩人宗左近も次のような文章を残している。

「三月三十一日、わたしの家で歓送会が行われた。酒をあおった。酔えなかった。突然、酒席で激しい口論が起った。「おれたちは、まず日本人なんだ、それから人間なんだ」。「違う、まず人間だよ。それから、いやいやながら日本人なのさ」。「そうじゃない。第一与件として日本人だ、次に属性として人間だ」。「馬鹿をいえ、人間がさきだ、日本人があとだ」。「けしからん、そんな日本人なら、叩っ斬ってやる。表にでろ」。「なにをいう、ファッショ。斬れるなら斬ってみな」。「馬鹿たれ、斬る!」。まず日本人説は東大法学部三年橋川文三とその友人Pであった。まず人間説は、東大フランス文学科卒業後海軍司令部勤務の白井健三郎であった」(宗左近『自伝 わだつみの一滴』)

この文章は、大東亜戦末期、当時東京帝国大学仏文科に在籍していた宗左近がいよいよ学徒出陣することになり、その歓送会が学友たちと営まれた時のエピソードを伝えるものなのだが、後に『日本浪曼派批判序説』で戦後の思想界に衝撃を与える橋川文三や、サルトルの翻訳者として名を成すことになる白井健三郎など、錚々たる面子が顔を揃えた歓送会で、戦前の帝大のレベルの高さを窺わせる一コマでもある。

面白いのは、生涯日本浪曼派体験から逃れることの出来なかった橋川文三が「まず日本人派」で、後に戦後ヒューマニズムの英雄サルトルの紹介者になる白井健三郎が「まず人間派」であることである。三つ子の魂百までというか、人間、若い頃に、その後になす仕事の大まかな方向性はやはり決まっているものなのかも知れない。

そして、学生時代に「まず日本人派」であった橋川文三は、晩年、三島と同じように西郷へと回帰し、『西郷隆盛紀行』を書くことになる。ただ、三島が西郷にあくまで「日本人」の象徴を見ていたのに対し、橋川は西郷に「日本人」のみに収まらない「アジア人」の原型を見ようとしているらしいことが、両者を決定的に分ける契機といえるだろうか。橋川としては、岡倉天心以来竹内好に至るまで夢見られてきた「アジア人」の像に、「人間」と「日本人」の二項対立を超える「第三の道」を見出そうとしていたのかもしれない。

三島の西郷像と橋川の西郷像――そのどちらが西郷の実像によりよく迫るものであるのか、その是非は今の僕にはまだ判断がつかないけれど、三島と橋川という「わだつみの世代」を代表する文人が、ともども最晩年に西郷へと強く心を惹かれていたという事実を、今暫くはじっくり胸の裡で反芻したいと思う。

――西郷を巡るポレミックの中で、未だ日本の「近代」は問われ続けている。
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