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2017年07月09日19:59

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川端龍子

キーワードは「幅広さ」

RYUSHI
川端龍子〜超ド級の日本画〜
@山種美術館
フォト



没後50年を記念する展覧会、本格的な回顧展としては12年ぶりだそう。


1885年 和歌山市生まれ。
10歳から東京。白馬会絵画研究所で洋画を学ぶ。
20代で渡米、帰国後日本画に転向。
1915年 院展入選。
1928年 院展を辞し 翌年青龍社設立。
1959年 文化勲章受章。
1963年 龍子記念館設立。(のち大田区に寄贈された)
1966年 逝去。


大田区立龍子記念館と山種美術館の所蔵品はじめ
74点でたどる展覧会です。


会場に入るとまず迎えてくれたのは
《鶴鼎図》
3羽の鶴の立ち姿。いかにも日本画らしく、龍子の個性はわかりません。
しかしこれからびっくりするような作品が次々と。


◆第1章 龍子誕生〜洋画、挿絵、そして日本画

学生時代の貴重な資料がたくさん。

1906年に結婚してから生活のために描いた挿絵仕事も。



初期の大作としては
《慈悲光礼賛(朝・夕)》がよかった。
特に《朝》の光に照らされた池の鯉。
《花と鉋屑》は題材が変わっている。かんなくずってw
◆第2章 青龍社とともに〜「会場芸術」と大衆〜


重要作品が集中。


《鳴門》
実は鳴門の渦潮はみていないのだそう。湘南の海と想像で描いたもの。
でも勢いがあります。


《請雨曼荼羅》
干上がった池におりたったシラサギ。足元にスッポン・鯉・ナマズ。
中空に太陽。サギの胸の羽が美しい。


《香炉峰》
戦中、軍の嘱託画家として偵察機に乗ったのちに描かれた大変大きな絵。
画面いっぱいの機体がなぜか半透明で中国の大地が透けてみえている。
フォト


《爆弾散華》
終戦の年、自宅に爆弾が落ちた経験から描かれた。
吹き飛んだ畑の作物の絵だが背景は金箔、鮮やかな植物のクローズアップでなぜか美しい絵。
戦争画なのに。
フォト



◆第3章 龍子の素顔〜もう一つの本質〜
《紙製手提げ袋》
お孫さんのつくった紙袋に龍子が絵を描いたもの。
家族を大事にしたひとだったそうで《春草図雛屏風》なんてのもあります。


《俳句の短冊》
ホトトギスの同人でもありました。


・盥(たらい)狭し 円く泳げる寒の鯉
・打ち上げて 何か淋しき秋遍路


とかいいですねえ。
やはり短冊に描いても鯉はうまい。


また信仰にもあつかったようで自宅に持仏堂もあり、
《十一面観音》
を、第29回ヴェネチア・ビエンナーレに出品したとか、びっくり。


◆展示替え

会期中に展示替えがあります。

◎前期(〜7/23)でなければみられないもの
・慈悲光礼賛(朝夕)
・真珠
・羽衣
・玉鱗
◎後期(7/25〜)でなければみられないもの
・土
・八ツ橋
・金閣炎上

このうち《真珠》は撮影可の作品。
ということは後期は別の作品が撮影OKになるのでしょうか?



**********
展覧会をみたあとは講演会をききました。


川端龍子が目指したこと
〜「会場芸術」のド迫力〜
講師:山下裕司(明治学院大学教授)
@國學院大学 常磐松ホール

◆フライヤー

「今回のフライヤーではアルファベットで大きく"RYUSI"と入れました。
まずは"りゅうこ"や"たつこ"ではないと知って欲しい」
というところからお話は始まりました。
戦前携わった雑誌『少女の友』にも「龍子先生は男のかただったのですね」という投書があったそうで。

メインビジュアルは上半分が《草の実》、下半分が《金閣炎上》。

◆年代

1885(明治18年)〜1966(昭和41年)。81歳
ステージのスクリーンには晩年の写真。
かわいらしい愛犬クマを抱いています。
大変な愛犬家で、クマが作品の上を歩いても怒らなかったというエピソードも。
「世代はちょうど私の祖父母くらいです」

近代画家の生没年は横山大観が目安になります。
大観は1868年(明治維新)に生まれ昭和33年に没しました。
つまり龍子は大観の17歳年下ということです。

◆龍子記念館
続いての映像は記念館。
大田区、西馬込駅から徒歩15分のやや不便な所にあります。
「車で行くことをお勧めします」
昭和38年開館、つまり自分の絵を飾るために自ら記念館を建てたということ。
これは初めてのケース。それまでにも遺族が建てたことはありましたが。
そんなところにも龍子の性格が表れています。
今秋はここでも特別展があり、山下先生も講演されるそう。


以下、年代に沿って作品映像を紹介しながら、
制作のヒントは何かを中心にお話は進みました。

◆学生時代の作品

学生時代の作品では「川端昇太郎」という署名辺りに注目。
赤字で教師の採点が入っているのです。

《正月之壱 萬歳》佳
《四季之花》ヨシ
《機関車》中

《狗子》上
←これには応挙の《狗子図》の影響が。
後ろ姿の子犬など、長沢芦雪の《狗子図》とほぼ同じ。
(ここで今秋の長沢芦雪展@愛知県美術館の宣伝)

《金魚》上

《風景(平等院)》1911
これは最近題名が判明した油彩。
「最初は洋画家を目指したことがわかります。
小品ですが荒々しいタッチ、残した筆跡がゴッホを思わせる」
しかし白樺派によってゴッホが日本に紹介されたのは大正期。
一体どこで龍子がゴッホを知ったのかは
「これからの研究課題です」

《女神》
水中で壺をささげもつ女神。
想起されるのは青木繁《わだつみのいろこの宮》。
ブリヂストン美術館の所蔵でいまパリに行ってます。
「これが出品された展覧会には龍子も出してますから確実に見ています」

◆日本画への転向

《慈光礼賛(朝夕)》1918
「日本画ですが画材を替えただけでまるで油彩のようです。線描がないし」

龍子は10代でアメリカに渡航したかったのですが叶わず、20代で行きました。
しかし思ったような成果がなく帰国後日本画に転向しました。

「日本画は誰にも習ってないんです。
この作品も従来の日本画にない表現。
他の人にやれないことをやりたいが慣れていない。
試行錯誤がみてとれます」

《土》1919
「進歩が見られますね」

《花と鉋屑》1920
「題材がヘンですよね(笑)
ベターっと塗っててうまいとは言えないけれど」

「このへん空回りしている。
龍子って人はツボにはまると凄いんですが、振れ幅が大きい。多面性がある」

《火生》1921
「裸の不動明王って。前を葉っぱで隠してるし。
激しい色使いや規格外の大きさで従来の格調高い仏画とは全く違う。
それで『会場芸術』と酷評されたのはご存知の通り。
ところが龍子という人はそれを逆手にとって
大きな会場で大きな作品を沢山の人に見せるんだと。
金持ちの床の間から日本画を解放する!と」

「批判が理念となる、というのはよくある話です。
印象派が美術の概念を変えたのも然り、
大観の朦朧体が新しいスタイルとして定着したのも然り」

《牛突之巻》1922
「これも線描の要素があまりない。
当時南画文人画が流行していたので南画に洋画の要素を足した。
リアルに描くより筆の勢いとリズムでみせる」

《華曲》1928
「これはなんですかね。
蝶を怖がって悶絶するライオン?
獅子と牡丹というのはよくあるテーマてすし、曾我蕭白に似たのがありますが。
時期的には大観と喧嘩して院展を脱退した直後ですね」

◆ジャーナリズムとのかかわり

ここですこし時代は戻ります。

《漫画東京日記》
《日本少年 表紙絵》


龍子は生活のために20〜30代で挿し絵画家、デザイナーとしてジャーナリズムとかかわりました。
画家が商業美術の世界で生きていくというのはよくある話です。
そして両方で成功した例が鏑木清方。

「研究テーマとして大切なんですが、才能豊かな人が沢山いるはずなんです。
戦後はグラフィックデザインという言葉ができてそっちにいった人が多い。
横尾忠則とかね。横尾さんはまあ画家宣言しましたが」
「江戸時代に世界的評価を受けたのは浮世絵でしょう?
しやあ20世紀後半に世界的評価されているのは、というと漫画ですよ。
天性の絵心をもった人が沢山漫画にいった」

「龍子も若いときに商業美術の世界にいたことが大きなポイントになる」


『少女の友』の付録《花鳥双六》がかわいくも本格的。
スゴロクなのに梅に鶴、水仙におしどり、木蓮におうむ、桃に鳩…
「楕円のなかに絵を描いている。
これは赤坂離宮(現在の迎賓館)にある濤川惚助の七宝額、
下絵を描いたのは渡辺省亭ですが、これがヒントになっているのではないか」


◆青龍社

《鳴門》1929
龍子は40代前半で横山大観と喧嘩して院展をとびだし、
青龍社をたちあげました。

「その第1回展の作品です。
大量の群青に白い胡粉の波。
スピード感があって、豪放磊落、新しい時代への意気込みが感じられる。
ちなみに群青っていうのは一番高いんですよ。それを6斤(3.6kg)使った
っていうから100万以上かかってる」

《青龍社第1回展 図録表紙/ポスター》
これは今の東京都美術館で行われました。
文字もデザインもレイアウトも龍子によるものです。
若い時の経験が役に立ったということですね。

「これ以降、春秋に青龍展はつづきました。
戦局が悪化した昭和19年・20年にも休まなかった。
それに龍子は毎回新作を出品している。
龍子ってひとは締切におくれたことが一度もないそうです。
勤勉だったんですね」

《青龍社 社章》
これも龍子のデザインです。もう独裁的というか。

《晴雨曼荼羅》1929
「これも楚々とした花鳥画ではありませんね」

《真珠》1931
「この絵には逸話があります。依頼したモデルが来なかったため
モデルなしで描いた。
それでか人体がリアルでない。

それでも従来の画題にないものを選んでいる。
ためらいがないし、突破力がある。
「おどろかしてやる」くらいの気持ちだったんんでしょうね」

《草の実》1931
そっくりな作品が国立近代美術館にあります。
その《草炎》1931
がもとで、こちらはそっくりに描いたもう一つのもの。

「これが私の龍子体験の初めです。
まず色彩がいい。
紺地に金で描く、というのは平安時代の貴族の納経に多くみられます。
神護寺とか、中尊寺とかね。
この古い仏教美術から応用するという発想がおもしろい」

この作品の、白く見えるところはプラチナ泥をつかっています。

「そして草むらを描く、といえば琳派ですね。抱一の《夏秋草図屏風》とか」

《黒潮》1932
「《鳴門》と色彩が似ていますね。
二曲屏風という形式も琳派っぽい」

《月光》1933
「珍しく線描主体の作品です。陽明門ですね。
龍子っていう人はこのようにスタイルの巾が広い」


《龍巻》1933
「これもおかしな作品でしょう?
くらげ、エイ、鮫とか…それが天から降ってくる!?
しかも3mの大画面」

天地逆に考えていたが途中でひっくり返してタイトルも変えたようです。

ちなみに龍子の画室は記念館の向かいに残っており公開もされています。

《羽衣》1935
「ヤップ島ですか、南洋を旅して題材にしたものが沢山残っている。
龍子には海原・大陸志向があります」

《花の袖》1936
白い花菖蒲。
琳派を意識したオーソドックスな作品。

《玉鱗》
「終生鯉の絵は描いていてクオリティが高い。応挙を意識してますね」
龍子という雅号は龍のおとし子の意味で登竜門と結びつく鯉は大切なモチーフ。


◆戦争画

《香炉峰》1939
「なんだこれは。大きい(2.4×7.2m)し。
戦争画といえばフジタでしょうが、龍子は戦闘場面は描かない。
その代わり画面からはみ出さんばかりの飛行機を一つ描いた。
しかも半透明。
大陸的なものへの憧れを戦争記録画という機会を使って描いた。
このサイズ感・発想・画題が龍子のド級なところです」

《題箋》
展示するときのキャプションのこと。
それまで龍子は自分で書いているのです。

「《香炉峰》のキャプションでは、"連作大陸の第三作…機体を透明にしたのは作者のウイットによるものである"
って、自分で言うか!(笑)」

ちなみに龍子は名刺も毛筆手書きのものを印刷、年賀状も手書きだったとのこと。

《八ツ橋》1945
終戦の年の作品。
”戦争にかった暁にさて芸術が無いとあっては淋しいものでしょう”との弁。

「もちろん八ツ橋といって思い起こされるのは光琳。
根津美術館の燕子花屏風と違って、メトロポリタンの光琳には八ツ橋が描かれている。
もちろん伊勢物語をふまえたもの。
根津版ではその”八ツ橋”も描かないところが、光琳のウイットというものでしょう(笑)」

八つ橋は出光所蔵の抱一もありますね。

また、龍子の八ツ橋には白い花弁のものも描かれているのが人と違ったことをしたい面目躍如。

《爆弾散華》1945
昭和20年の終戦後に開催された青龍展出品作。
3日前、家に爆弾が落ちたのを題材にしている。

「息子を戦争で亡くしているので、散華というのは供養の意味もあったか。
しかし画面には金箔がランダムに貼られているんですね。
この題箋も自らかいています」


◆時事題材

《百子図》1949
戦後、動物園に象のインディラがやってきたという明るいニュースを題材にしたもの。
象をかこむ子ども達が可愛い。

《金閣炎上》1950
法隆寺の壁画焼失とともにショッキングな出来事がこれだった。
早速それを題材に。
墨一色に炎の赤だけ。

「これで思い起こされるのは長沢芦雪の《方広寺大仏殿炎上図》。
落款にも朱を使っているのが芦雪のウイットというものでしょう(笑)
この絵は個人蔵でね、残念ながら今秋の芦雪展にも出ない」

《夢》1951
平泉の中尊寺金色堂のミイラに学術調査が行われたというニュースが題材。
黄金の棺桶の蓋からミイラがのぞいていて、蛾が舞っています。

「この作品で思い起こされるのはもちろん、山種美術館所蔵、速水御舟の《炎舞》ですね。
どちらも死生観を感じさせる。
ちなみに、龍子も御舟も蛾をすべて正面向きに描いている」


◆その他

《花下独酌》1960
戯画的なものも描きます。

《春草図雛屏風》
「緑の土堤に草花、といえば速水御舟の《翠苔緑芝》ですねえ」

◆合作

《松竹梅》
横山大観、村上玉堂、龍子が合作。

「3人並んだ写真がこれです。
かつて確執がありましたが龍子はやはり大観を尊敬していましたからね。
しかし日本画家なのに龍子だけ洋装」

◆インフォメーション

7月15日(土)TV東京/TV大阪『美の巨人たち』小村雪岱(こむら・せったい)に山下裕二先生登場。

7月16日(日)NHK『日曜美術館』で山下裕二先生が川端龍子を語ります。
   ゲストは会田誠さん。

7月23日(日)NHK『日曜美術館』青木繁 にも山下裕二先生がコメント出演。

山下先生大活躍!





8月20日まで。
http://www.yamatane-museum.jp/exh/2017/kawabata.html
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