予報では寒い週末ということだったが、いいほうに外れてぽかぽか陽気だ。寺の境内には、まさに旬な桜色のコートを着ていた女性がいた。薄手のスプリング・コートだ。鎌倉の桜は三分から四分咲きといったところ。大風でも吹かない限り、来週末が満開の見頃だろう。
昼が2時間過ぎたところで春に誘われたのか、不意に買い物欲が涌いた。と言っても買いたい物は高額なMac製品か、ネット・ショップのほうが遙かに安い高出力の無線LANルーターくらいしかない。退職前ならこういう時にヤフオクで物欲を満たすような真似をしていたが、これ以上物は要らない。
隣町の大船にでも行ってみるか。強いて言えばメガネが欲しいので、まずは「和親」を訪ねてみた。軽くて安物っぽくないフレームがあったが、これに中近の薄型レンズを入れると結構な値段になるので、諦めて退店。次にイトーヨーカ堂に向かった。
そろそろ切れかかっているコーヒードリッパーのペーパー・フィルターを買う。特殊なサイズゆえ、売っている店が田舎では少なく、ここくらいだ。2階もちょっとひやかして、白いシャツを手に取ってみたが、これも予算上パス。
隣のブックオフに入店。が、今日みたいな日は本の背表紙をひたすら集中して見る気分でもない。新書棚で10分ほど眺めたところで、『噛み合わせが人生を変える』(日本顎咬合学会、小学館新書)という普段なら絶対手に取らない健康系が目に止まり、珍しく序章を立ち読みしてしまった。心臓疾患も高血圧も癌も糖尿病も、歯と口腔内の衛生状態が大きく関係しているらしい。ということで、買いだ。他に、見つければ必ず買っている池内紀さんの本も合わせて、今日は2冊だけ。珍しく30分以内でレジを済ませた。
駅への戻り道で、裏道を選んで歩いた。
真っ白な外観の『白いカフェ』という喫茶店があった。入口の脇に白いシャツが3枚が白いピンで留められている。そして、イーゼルに白い布キャンパスが立て掛けられて、店の趣旨が短な言葉で綴られていた。
「外装も内装も、テーブルやカップなども、
出来るだけ美しい白でそろえてみました。
おいしいコーヒーと白いケーキをご用意しています。
コーヒー豆は店主みずから現地に行って買いました」
おそるおそる入ってみると、カウンターが5席と窓に面したところに2つの2人用テーブルがあるだけの小さなカフェだった。午後4時という時間帯のせいか、客は一人もいなかった。
確かに白一色だ。カウンターの中には30歳代半ばの女性が立っている。白のコットンパンツとシャツ姿で、どこかで見たような顔だなというのが第一印象だった。
メニューはシンプルで、コーヒーはストレートの3種類。エクアドル、ボリビア、グァテマラ。紅茶もストレート、レモンティ、ミルクティの3種類。そして、本日のケーキが2種類でホワイト・シフォン、白いチーズケーキと手書きで書かれていた。
マンデリンの次に好きなグァテマラをオーダーすると、彼女は豆を挽き始めた。覗きこむように見たら、コーヒーミルも金属の部分を除く本体は白だった。
今日は暖かいですね、とか、ご近所のかたですかといったおしゃべりはない。BGMもないので、聞こえるのは湯が沸く音だけだった。意図的に無口なのではないか、と思った。右手の壁に目を向けると、漂白した和紙のような紙が白い額縁に入って掛けられていた。絵が描かれていない……。いや、目を凝らしてみると、雲(らしきふわふわとした物体)が油絵の具かアクリルで描かれていた。
「おまちどおさま」
白いカップと白いソーサー。さすがにコーヒーだけは黒色だった。
気詰まり感はなかった。
店主はカウンターの中に置いているらしき椅子に座り、カップを磨いている様子だ。
タバコを吸いたくなったが、この靜かな雰囲気を壊して外に出て一服というわけにもいかないので、カバンの入れているシステム手帳を開き、ここ数カ月のメモや買いたい本リストなどを見ることにした。
コーヒーを半分飲んだところで、白い陶器製のピッチャーにあるクリームを入れて、また飲んだ。
「おいしいですね」「あなたがグァテマラの農園を訪ねて仕入れた豆ですか」
頭の中で話したが口には出さなかった。
20分が経ったところで、席を立った。
「500円をいただきます」
「ごちそうさまでした」とだけ答えた。
「ありがとうございました」と彼女は言い、しばらく間を置いて続けた。
「……知り合い以外であなたが初めてのお客様です。今日の午前11時に開店しました。今後ともよろしくお願いします」
どこかで会ったかテレビで見たような気がするが、具体像が雲のように輪郭を失って、そんなことはどうでもいいように思えたのだった。
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