mixiユーザー(id:1737245)

2015年12月01日16:47

2895 view

『突入せよ! あさま山荘事件』と『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』

フォト


高輪図書館で『突入せよ! あさま山荘事件』のDVDを見つけたので借りてきた。これは事件当時現場指揮にあたった佐々淳行の『連合赤軍「あさま山荘」事件』が原作なので、当然警察側からの視点で描かれたあさま山荘事件の映像化作品になる。

僕が連合赤軍に興味を持ったのは、贔屓の女優である奥田恵梨華がチョイ役で出演しているということで、故・若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を観に行き、色々と衝撃を受けたことがきっかけである。

フォト


それまで、全共闘世代そのものにあまりいいイメージがなかったので(いまでもないけど)、連合赤軍だのあさま山荘事件だの日本赤軍だのにはほとんど興味がなかったのだけど、閉鎖的な空間でイデオロギーに呪縛された集団の人間関係が暴走していく様を、生々しく、一種エロティックに描いた『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』のインパクトは強烈で、俄然この異様な事件への興味がわき起こり、永田洋子や森恒夫といった当事者の手記を含む関連書籍を読み漁り、果ては元連合赤軍兵士で、軽井沢で逮捕され、懲役20年を務め上げて出所した後、現在静岡駅前でスナックを経営している植垣康博さんにも実際に話を聞きに会いに行ったほどである。

若松監督が『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮ろうと思ったのは、『突入せよ! あさま山荘事件』を観て、連合赤軍事件が警察側からの一方的な視点でしか描かれておらず、この映画の中での連合赤軍のメンバーがまるでエイリアンか何かのように不気味で凶悪な存在としてしか扱われていないことに憤慨したためだという。結果的には「総括」という名の異様な仲間殺しという形になってしまったとはいえ、連合赤軍事件の根底には社会を少しでもよくしたいという理想があったのであって、それを自分は少しでもすくい上げたい――という気持ちから若松監督は私費を投げ打って『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を作り上げたそうである。若松監督は元々学生運動のシンパで、山岳ベースで総括死した遠山美枝子や日本赤軍の幹部になる重信房子とも親しくしていて、パレスチナ解放人民戦線に取材したドキュメンタリー映画『赤軍――PFLP・世界戦争宣言』を撮ったりもしていた。そんな若松監督からすると、徹頭徹尾警察側に寄り添い、佐々淳行を英雄的に描いた『突入せよ! あさま山荘事件』は許し難い権力寄りの映画と受け取られたのだろう。

しかし、実際に完成した『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』は、観たことのある人であれば分かると思うけど、とてもではないけど連合赤軍を美化したような映画には仕上がっていない。若松監督としても、可能な限り連合赤軍に寄り添い、同情的に映画を撮ろうとしたのだろうけど、事実に即せば即すほど、「理想」の名のもとに振り回された救いようのない醜悪な暴力がそこにあったことを描かざるを得なかったのだろう。

連合赤軍事件が提示した、高い理想を掲げれば掲げるほど、その実際が醜悪な暴力沙汰にしか結果しないという逆説は、それこそ、スターリン時代のソ連、大東亜戦争期における日本、さらにはナポレオン戦争期におけるフランスの姿にも通じるものがあり、僕などは、フランス革命をモチーフにして書かれたヘルダーリンの『ヒュペーリオン』にある、

「国家を人間の天国にしようとする者は、国家を人間の地獄にしてしまう」

という言葉を思い出してしまう。連合赤軍事件に現在も振り返るに値する思想的問題があるとしたら、「高い理想を掲げれば掲げるほど、その実際が醜悪な暴力沙汰にしか結果しないという逆説」を非常に分かりやすい形で提示していることに求められるだろう。また、歴史的には、60年代を通じて高度経済成長が進み、知識人と大衆の区別が曖昧となった70年代初頭における、知識人的自意識を持つ若者たちの最後の断末魔的な事件であったと捉えることもできるのではないだろうか。大衆化が進行する社会における「知識人」の役割の血みどろの模索であったという意味で、連合赤軍事件は三島事件と同時代的に呼応し合っているとも思われる。

若松孝二監督の『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』は、最後に連合赤軍のメンバーには「勇気がなかった」と批判して映画をまとめている。この「総括」の仕方には、当時全共闘運動に実際にコミットしていた人たちから多くの批判が寄せられているが、少なくとも「理想の逆説」を生々しく描いている一点で、僕は『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を評価したいと思う。また、様々な党派が入り乱れていて、後続世代からは分かりづらい、連合赤軍の結成に至るまでの60年代の左翼学生運動の流れを分かりやすくダイジェストしているので、当時の学生運動を知るための入門用テキストとしてもなかなかすぐれた作品になっていると思う。

さて、『突入せよ! あさま山荘事件』だけど、たしかに徹頭徹尾警察側からの視点でしか描かれていないし、佐々淳行を美化しすぎているし、佐々を美化する一方で長野県警をセクショナリズムに凝り固まった無能な田舎警察として矮小化しているのもひどいし、さらにはこのシリアスな事件をエンタメ風の演出で描き過ぎているという欠点はあるが、それでも全体的にはそれほどひどい映画だとは思わなかった。特に警察内部でなかなか指揮系統を統一できず、警察庁と長野県警の間で主導権争いが最後まで続く様子などは、いかにも日本的な組織の実際という感じだし、こういう日本的組織のゴタゴタを、佐々ばかり美化せず、もっと双方の言い分に立って淡々と映像化していれば、『突入せよ! あさま山荘事件』はかえってより格調の高い映画に仕上がっていたと思う。また、銃器で武装しているテロリスト集団など、外国であれば問答無用で全員射殺して鎮圧するだろうに、日本の警察は最後まで発砲せずに一方的な銃撃にジェラルミンの楯一つで耐え抜き、ついにテロリストたちを生きたまま制圧・確保し人質救出にも成功しているのである。これは凄いことだと思う一方、戦後日本が危機管理上抱え込んでいる問題もここに分かりやすく露わになっていると思う。相手が撃って来ても、現場の警官たちは発砲が禁じられているのである。これは現在の海外派兵される自衛隊の「ポジティヴ・リスト」にも通じる過酷な要求である。組織の都合で現場に過大な要求をし過ぎるというのは、それこそ大東亜戦争の頃から変わらない、日本の実力部隊の抱える通弊といえるのではないだろうか。また、『突入せよ! あさま山荘事件』の劇中では、あさま山荘事件を機に、後藤田長官は警察権力の強化を狙っているのではないか――とマスコミが報道している様子も描かれていたけど、最近の安保法制やパリ連続テロを巡る報道とそっくりで、今も昔も変わらない日本のマスコミのダメな特徴をカリカチュアしていたのも、なかなかよかった。

ただ、『突入せよ! あさま山荘事件』には見逃し難い欠点もあって、映画の最後に殉職警官の葬儀の場面が少しだけ描かれるのだけど、これが本当にとってつけたような描き方で、こんな雑な描き方をするくらいなら、まったく描かない方がまだましだったと思う。描くのであれば、もっと荘重に、丁寧に、部下を死なせた佐々の心境や、家族に死なれた遺族の心情に、濃やかに迫るべきだったと思う。ここで手を抜いてしまっては、極端な話、この事件を警察側の視点から映画化する意味がない。こういうところに、この監督の人間観・国家観の「軽さ」が出てしまっているように僕は感じた。あさま山荘事件を佐々の夫婦愛の次元に着地させてどうする。

ともあれ、連合赤軍事件を、警察の側から描いた『突入せよ! あさま山荘事件』と、活動家の側から描いた『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を併せて観ることによって、戦後日本の一つの画期をなすこの事件への認識をより立体的なものにすることができるのは確かだろう。




【追記】

世界のテロリズムの歴史を振り返ると、一般市民を狙った無差別テロの先鞭をつけたのは、連合赤軍の兄弟組織である日本赤軍があさま山荘事件と同じ1972年に起したテルアビブ空港乱射事件になるのではないかと思われる。このテロ事件がその後のイスラム圏の活動家たちに与えたインパクトは決定的だったのではないだろうか。イスラム国を、PFLPと共闘した日本赤軍の延長線上で捉えることは、あながち牽強付会ではないと思う。もし若松孝二監督が存命だったら、かつて連合赤軍やパレスチナ解放人民戦線に共感したように、イスラム国にも共感――とまではいなくとも、何かしらの「理解」を示し、さらには、どのような形かでイスラム国をモチーフにした映画を撮っていたのではないだろうか。イスラム国に身を投じる青年たちも決して「エイリアン」ではない、と言って。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する