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2015年11月15日15:31

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夜10時に帰宅してみたら、衝撃を受けた

 11月14日土曜日、雨。
 朝9時半、横須賀線上り列車に乗る。埼玉の野澤邸を訪ねることになっていた。
 正午、西武池袋線K駅で待ち合わせ。15分ほど前に着いたのは予定通りで、これから禁煙を強いられるため、派出所わきに傘をさして立ち、2本たて続けにタバコを吸う。駅前の通りを見ていると歩きタバコの通行人が目に付くのだが、この辺りはまだ歩行禁煙地域になっていないのだろうか。
 正午、駅近くの高級中華店で、野澤さんから豪華なランチを奢ってもらう。毎回、この一帯では上等とされている昼ごはんなり晩ごはんをご馳走されているので、感謝の気持ちより申し訳なさが勝っている。が、その気持ちさえ割り引けば、手の込んだ中華のコース料理は会話するのが億劫になるくらいに美味しくて、デザートの杏仁豆腐を食べ終わった頃には早くも食べ疲れ状態になってしまった。これからが本番なのに。
 野澤一が東京から甲府へと疎開したときに持ち出した100数十冊の蔵書が、いまになって出て来た。うち32冊は山梨県立文学館に寄贈される。すでに27冊はもう文学館に納められた。が、私が見て激しく感動したソロー関連の著作5冊は、文学館了解の下、存分に私が考察&検証したのちに送付するということとなっていた。
 まだ野澤邸には100冊ほど、本が残っていた。それらの中身をざっと確認するというのが今日の使命だ。お宅に上がってすぐ、一冊一冊手にとって、読んだ痕跡がありそうな本については本文を開いてチェックする。すると、文章にラインを引いていたり、◎印が付いているページが見つかった。少しでも痕跡がある本は取り分け、次々とページを開いていった。古い本だと明治40年代、新しいもので昭和18年あたりまで。約半数の本は傷みが激しく、手にしただけで本文用紙の端が畳の上に落ちてくるような本も多数あった。だから神経を遣う。一応斜めに字を追いながら、どういう内容の本であるかということも頭に入れる努力だけはする。
 あっという間に1時間2時間が過ぎていく。強迫神経症の病理本だとかフロイトの翻訳書もあった。隣のリビングにいらっしゃるご子息に「また鉛筆で線を引いている本が見つかりましたが、神経症にどう対応するかという本です。文学館で資料を見ていたときに睡眠薬の服用書の裏に走り書きをしていたメモがあって、昭和15年あたりからずいぶんとしんどそうな様子がうかがえます」などと声を掛ける。「おふくろから聞いてます。父には気に障る言葉というのがあって、それを不覚にも出してしまうと、烈火のごとく怒ったそうです」とご子息は答える。1分くらいそんな会話を交わしたらまた本のページを開いていく。
 結局午後6時になってようやく一通り本をチェックし終わった。
 借り受けが決定しているソロー関連書以外に、何冊か気になった本が出て来た。たとえば『山居』という本だ。昭和4年4月刊、著者は神田豊穂というかたで、春秋社から出ている。表紙はない。ページ上部に焼け焦げがある。昭和4年と言えば野澤が四尾連湖に隠棲を始めた年だ。昭和6年、不幸にしてこの小屋は火事で焼失するのだが、ひとつの推理として、この『山居』はその火事からなんとか免れた一冊ではないか、よく見ると焼け焦げとは別に水に濡れて紙が駄目になったところが何十ページかあった。内容も内容だけに読んでおいたほうがよくないだろうか。野澤一の生活と似通っている、ないしは著者の思想が似通っている可能性も高く、この時代の知識人の教養などを知る上でも手がかりになるはずだ。
 このような、やむにやまれず読んでおかなきゃという本が4冊あった。ご子息は私に、もし欲しい本があれば進呈いたします、と言われたが、きっぱり断った。せっかく出てきた蔵書ゆえ、文学館と野澤家でのみ保管するのがいい、一冊でも散逸させてはならない、と。それでご納得され、私が興味を抱いた本については遠慮なく借りるということで話は結着した。
 夕飯時の6時になって、奥様から「お寿司の出前をとりますからもう少しいてください」と言われた。これもいい争いになるくらいに固辞した。毎回ごはんを一度よばれるのはありがたいことだけど、昼と夜まで気を遣われると逆に来づらくなってしまう。
 年末か年始あたり、今日お借りする本を返しがてらふたたびお邪魔する、ということで納得してもらった。が、それからもお茶だ、お菓子だと出され、しばらく雑談めいた話をしているうちに午後7時を過ぎた頃にようやく立ち上がり、駅までクルマで送ってもらった。本は持参したビニールの緩衝材で包んで、大きなカバンに入れ、さらにカバンをビニールで包んだ。本を壊さないように、濡らさないように、この先長い道中、細心の注意をしなければ。
 午後10時少し前に帰宅。
 ふう、長い一日だった。
 そこに待ち受けていたのは衝撃のはがきだった。
 玄関の大きな靴箱にその日配達された郵便物がある。
 その場で一枚のはがきを手にした。
「喪中につき年末年始のご挨拶はご遠慮申し上げます」
 喪中はがきが届き始める季節となった。
 疲れ切った目で送り主を見たら、「福原」の名字が目に入った。ああ、ついに叔母(母の姉)が亡くなったのか、と思った。福原君は私と同じ学年で、幼少時代にいちばん仲の良かった従兄弟で、しかもうちの母と福原君の母は神戸っ子にありがちな見栄っぱりだったので、息子の服はデパートで買いそろえるだの一流私立中に「お受験」させたいだのと激しいライバル関係にあって、福原君も私もそれなりに困っていたのだった。
 そう言えば3年くらい前から叔母さんの年賀状も届かなくなったな、と一瞬感慨に耽った。
 またあとでゆっくり考えよう、とはがきをそのままに靴を脱いでリビングに入った……ところで、もう一度玄関に戻り、あらためてはがきを見た。 
 そこには福原君ではなく、彼の妻の名前が印刷されていた。
 小さな級数で打たれている文面を読んで、信じられなかった。亡くなったのは叔母さんではなくて福原君だった。私と同い年。今年2月27日に、とあった。
 もう一回はがきを読んだ。
 深呼吸した。唾を一回飲んだ。
 福原が死んだ、と? どういうことだ。
 すぐに電話をした。が、5回ほどコール音がして留守電に変わったので、なにも吹き込まず受話器を置いた。
 深夜、まさか冗談で喪中はがきを出すわけもないので、事実だろうと無理に納得した。が、痛ましい気持ちより、「次はおまえの番だ」と言われているような気がして、自分が死ぬことはどうでもよいことだが(人生というのは始めがあれば終わりもある)という事実を突き付けられて、これぞ「ザ・意気消沈」という落ち込みになったのだった。やむなく睡眠薬の量を2倍にして、無理矢理午前零時半に寝た。
 明日、真相を確かめるべく、福原君のかみさんに電話する!


 11月15日 曇りのち晴れ
 電話をした。今度はコール3回で奥さんが出た。
 突然の心筋梗塞だった。朝、出勤前に倒れ、救急車に運ばれ、帰らぬ人となった。
 30分近い長電話になった。
 いきなりのことで2カ月ちょっと何も考えられないし手が付かない状態に陥ったと彼女は言う。「なぜこの私に報せなかったのか?」と言われる前に、ほとんど半狂乱になっていたことを先方から持ち出され、「来年はこの私の番だ、と昨夜、寝る寸前までずっと想っていた」と言うと「私は今年2月末からずっと私も死ぬ番が来たと思ってます」と返された。
 それにしても、人生というのは終えた人の側から逆に過去を眺めてみるとせつないものだ。電話を切ったあと、不謹慎なことだが、月に最初に降り立ったアームストロング船長の「この一歩は一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩である」という言葉が不意に蘇って、「一人の人間なんて世界から考えたら小さな一歩でしかないが、一人の人間にとっては貴重な命だからこその大いなる一歩である」というような文言を心のなかでつぶやいた。何が言いたいのか自分でもよくわからない。
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