家にテレビがない人がときどきいる。昨日のトークイベントで竹沢うるまは、数日前にBSのドキュメンタリー番組に出ました、と言ったあと、「ぼくはテレビを持ってないので観ていませんが」と照れ笑いし、聴衆もつられて笑った。たぶん失笑ではなかったはずだ。彼のような「旅人」が、日常生活のなかでバラエティ番組やNHKの連ドラを好んで見る、と言われたほうが逆に違和感を覚える。
彼に限らずテレビを全く見ない人、というのはかなりの率で存在する。完全な菜食主義者の比率と同じくらいではないだろうか。テレビがなくったって日常生活は成り立つ。ときどき他人と話が合わなくなったり、時には「常識がない」と言われたりするが、それはせいぜい「えっ、キャンディーズを知らないの?」とか「水戸黄門を観たことがない人間と初めて会った!」と驚かれる程度のこと。学生時代の7年間、テレビのない暮らしだったが、利点としては独自の進化を遂げられたこと、欠点としては独自の進化を遂げてしまったこと。
テレビを見ない人間というのは、だいたいに於いて変人だ。一見フツーに見えても深くつきあってみると根本が変人であることがわかる。敢えてパソコンを使わない主義の人、外食をしない人なんかも現代では変人に違いないが、私は独自進化を余儀なくされてしまった側ゆえ、なかなかに好感が持ててしまうのだ。ベジタリアンと話をすると、相手に対して一定の敬意を抱き、自分に対しては引け目というか劣等感めいた気持ちを感じてしまう。
今日は午後4時から30分くらい、浦和vs神戸のJリーグ中継を観た。この試合に勝つか引き分けで浦和レッズは優勝が決まる。ネガティブ思考のサッカー中継なんて観るものじゃない。私はアンチ浦和で、しかもヴィッセル神戸も好きではない。どちらも負けろ、というような目でサッカーを見ても面白いわけがない。つまらないのなら消そう、という当たり前のことに思い至って、観るのをやめてしまった。
夕刊を読んでいて、ブルボン小林(長嶋有がコラムを書くときに使うペンネーム)が酒鬼薔薇聖斗なる少年Aの書いた『絶歌』の題名が気にくわないと「末端時評」に取り上げていた。そもそもこの題名で本が出たとき、私も違和感を覚え、(まるで声帯を手術で取って歌えなくなった演歌歌手の手記みたいな題名だな)と思ったのだった。ブルボン氏もどうしておまえが出す本の題名が「酒鬼薔薇聖斗」の当て字の不可思議さ同様、安直で不適切な造語なんだ、と終始怒っていた。
犯罪者の手記でこんないい加減さがあっていいものなのか? 本文の部分部分がネットに出ているので計20ページくらい読んでみたのだが、ときどき小説のような文体になっていて、遺族に対する無配慮よりむしろ、、「酒鬼薔薇聖斗監督劇場」たる独善性が不快になった。
しかし。
リアル書店でもネット書店でも『絶歌』は売れ行き1位を独走中で、(初版10万部の上に)増刷がかかった。売れるが勝ちか、と自嘲する。純文学作家なんて2年に1冊の割で本を出し、初版3000〜5000部。うまくいって2000部の増刷、失敗作だと返本7割。生涯トータルでようやくと10万部に届くか届かないか、というのが相場だ。
私が嫌いな物は売れる。好きな物は売れない。
たぶん子どもの頃からテレビの視聴を制限され、途中からはテレビがない生活になり、いまはテレビがあっても一日平均30分くらい、というのが災いしているのだろう。
今日はアジサイ苗をゴミ置き場周辺に植えてみた。一昨年に植えたのは大きく成長し、去年移植した苗は誰かが収集不可ゴミを置いたりしたものだから根付かず。今年の苗が付くといいな。
また伝聞で、私が育てているトウガラシ苗が欲しい、という声を聞いた。そのかたには一昨年、差し上げたのだが、彼の友人である古着屋さんの前をラズリと通りかかったら「また育てたいって言ってたよ」と。なんか嬉しい。そのかたの家を知らないので、古着屋さんに預けておこう。
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