先日、ある人が国立新美術館の1階フロアで「この美術館は素晴らしい。黒川紀章さんが設計!」と言ったとき、とっさにうつむいた。表情を隱すためだった。建築物はシンボリックであればあるほど素晴らしい、というのは世の趨勢だから、存在感を高めて周囲を睥睨するような意匠を否定するのは野暮だろう。しかし私は密かにこのような美意識を軽蔑している。ヨーロッパの宗教的施設は概してシンボリックな建築物である。が、単体でこそ押し出しは強いものの、100年200年と変わらぬ街並みやアパートメントなどを併せて鳥瞰してみたら、目立つ度合いは存外小さい。
ましてや街としての意匠がないような日本に於いて、度が過ぎるモニュメントのような建築物がふさわしいのだろうか? 建物は芸術であっていいのか、それより使用目的に合致した構造とデザインを持つほうが大事なのではないだろうか?
国立競技場が取り壊され、新たな競技場プランが発表された。無駄な曲線を多用した屋根は失敗した飴細工のようなみすぼらしさだと思った。だから予算と工期の都合で曲線屋根を作らない設計変更をしたいという話が出て来たとき、ほっとした。シンプルな極致と言える旧国立競技場は、あのいかがわしい新設計案が決まった時点になって初めて、すぐれた競技場施設だったのではないか、と一部の人たちに再認識されたからだ。
あくまで個人的な感性だが、私は黒川紀章に代表される「主張する建物」が嫌いだ、声が大きい者勝ちが嫌いなのと同様に。新国立美術館より上野の東京都美術館のほうが、よほど品もあれば、居心地がいいし動きやすい。
自己主張が何にも勝る時代。
ガキっぽすぎやしませんか? 日本古来の美徳から遠すぎやしませんか?
昼イチの1時、テレビを付けたらNHKで国会中継をしていて、民主党・辻本議員が最初に「これからきつい質問をしますが安保法制の内容をより掘り下げる目的ですから、怒らないで聞いてください」という断りを述べたとき、本心なのかギャグなのかわからず笑ってしまった。
が、それから25分後、とうとう安倍は怒り出し、「自分の意見ばっか言うな。早く質問しろよ」と2度にわたって辻本議員に野次を飛ばしたのだった。が、辻本は自分の意見ではなく、安倍が昨年に述べたことを丁寧に復唱しているに過ぎなかった。が、辛抱たまらなくなった安倍は声を荒げ、早く質問しろよ〜とチンピラのような態度になったのだ。これでしばし質疑が中断して安倍は素直に謝っていた。だから問題はないと言えばない。
安倍に代表される「すぐに逆ギレ」「相手を制して自己主張」というのは、世紀末以降、日本人の特徴になっている。年寄り=好々爺というイメージはもはやなく、年寄りはすぐにぶちキレる。若者が逆にへんに小賢くなってキレなくなった。企業は戦う姿勢が強いところほど利益が増し、デザインは装飾過多なものが勝ち、欧米各国がこぞって称賛する「わびさび」などの伝統的な感性は日本からとおに消え、ドイツ人の知日派が受け継いでいるのが現状だ。でも、どうしてドイツ人なんだ(笑)?
辻本議員のあとも民主党の議員が質問に立ったが、小学校の児童会さながらの議論を聞いていても空しくなるだけなので、小説に逃げた。
朝、散歩と朝食のあと、自転車で逗子にブックオフへ行き、佐藤泰志『そこのみにて光り輝く』他、3冊の小説を買った。こんな時代、酒やクスリに溺れるか、架空の世界に逃げ込んで世界は自分一人で存在しているとでもうそぶくより他に、狂わなくて済む方法はない。
「そこのみ」を読み始めたら、わずか5分後には小説の舞台となった津軽海峡に面した貧民窟の一角に身を置いていた。松家仁之さんの長編小説を読んで感銘を受けて以来、それでなくても頭のネジがゆるんで現実との対応能力が乏しいのに、文学より他、自分が溶け込める社会がなくなってしまった。学生時代の後期も似たようなことがあったので、先祖返り、というか子どもに返って行ってるんだろうな。
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