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2015年04月26日11:10

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「方丈」と「豊饒」――蓮田善明と三島由紀夫

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1127184

蓮田善明の『鴨長明』(昭和18年刊)全編がWeb上にアップされていたので読んでみた。アマゾンだと古本で1万3000円の値段が付いていてちょっと手の出ない本が、無料で読めるのだから有り難いことではある。

さて、蓮田善明の『鴨長明』は、一読、明らかにヘルダーリンの『ヒュペーリオン』を下敷きに構想された評論だと思われた。ちなみにちくま文庫版の邦訳『ヒュペーリオン』には「ギリシアの隠者」という副題がついている。

ヘルダーリンの『ヒュペーリオン』は、オスマン帝国支配下のギリシア解放戦争に従軍し、戦地で解放軍の蛮行を目撃し、戦争の大義に絶望して、隠遁の道を選ぶ一ギリシア青年の姿を描いた書簡体小説である。これは、フランス革命に熱狂し、やがて蛮行に堕したジャコバン主義へ絶望したヘルダーリン自身の体験が反映されていると言われる。

蓮田善明はこの『ヒュペーリオン』を換骨奪胎し、源平の動乱期に俗世に絶望し隠者となった鴨長明の姿を描いているのだけど、これは源平の動乱に大東亜戦争を重ね合わせたものでもあるだろう。昭和14年に蓮田善明は中支戦線に従軍し戦傷しているのだが、療養のために帰郷した際の心境を描いた小説『有心』の作中でも、主人公に『方丈記』を読ませている。総力戦体制下の日本の現実に疲れた当時の蓮田には、ヒュペーリオン=鴨長明的な「隠遁」へ強く惹かれる気持ちが働いていたようである。

「『方丈記』は、先づ初めに唯歎きだけで書かれたといふ稀有の詩を、次に言葉でなくて寧ろ行動でした詩であり、次に厳しく詩人の住処を、詩人の位置を意志し、占められてそれによつてのみ詩が書かれ(文字でなしに)てゐることを教へた。そして隠遁といふのが詩人の詩の烈しい形式でしかなかつた秘密が、否、権勢と利慾とだけが(その代表者は平清盛であつた)すべてであつて、文化が頽廃し喪失した時代に於ける詩人の、恐ろしいばかりの純粋な生の技術そのものを、示してくれてゐた。これは何ら現代の意味での厭世(これも現代の頽廃の一種にほかならなかつた)などでなくて、厭世といふことが、無類の強さで生を護らうとした唯一人の美しい行動であつた。詩人は歎き、恨み、悲しみ、憤り、軽蔑し、嘲笑し、哀れみ、歌ひ、弾じ、批評し、誇り、疑ひ、信じ、拗ね、不逞くされてゐるが、すべて清らかな言葉にみちてゐた」(『有心』)

蓮田が折に触れて共感を表明していた保田與重郎はヘルダーリンを「清らかな詩人」と呼んでいて、その言葉を借りるようにして蓮田もまた鴨長明を「清らかな詩人」と表現している。では、蓮田は鴨長明の何に「清らか」さを見ていたのか?

世俗を逃れ方丈の庵でただひたすら「直(すなお)な情け」を追い求めた長明の姿に、蓮田は「清らかな詩人」を見ていたようである。現代人が最も失っている「直な情け」、これを世人は「単純」とも呼ぶだろう。ヘルダーリンの師にあたるシラー風にいえば「素朴」となる。そして、「隠遁」の中での「直な情け=単純=素朴」の希求の意味を、「方丈記」の、

「ひとりしらべ、ひとり詠じて、みづから心を養うばかりなり」

という文章から連想して蓮田は「養生」という言葉で表現している。そして「養生」のはたらきを次のように説いているが、ここが蓮田の『鴨長明』のコアになる箇所だろう。

「生を養ふとは衰へたる生を新生せしめると共に之を豊かに花栄へしめねばならない。唯動物の如く衣食住して耻じとしないのではない。それは正しくは世人に対して、というのではなく、「人」として己自ら耻づるのであるが、それ故にこそ又人に問ひて深く耻じと思ふのである。「世」の人に対してではない。ここには己の中に、又己の外に、耻づべき「人」が顧みられ、その復活があるのである」(『鴨長明』)

この「養生」という言葉は蓮田の殊のほか愛した言葉であり、『養生の文学』というタイトルの批評的エッセイも蓮田は書いている。その中で蓮田は、「養生」こそ日本文芸の志すべき道である、というようなことも書いている。

「私はこの頃「みやこぶり」を日本人の養生法として想ひつつこれらの御製(昭和天皇御製)を拝誦してゐる」(『養生の文学』)

後鳥羽院を慕いながら方丈の庵に隠遁し「養生」を志した鴨長明に、蓮田は後の国学へとつながっていく近世文化の先駆けを見ているが、そんな長明の姿に、聖戦下の荒廃した文化状況の中、日本文化を後代に伝えんとする自身の一筋の祈りを仮託したのであろう。興味深いのは、「隠遁(出離)」を蓮田が「イロニー」とも称していることである。

「例へば、茶道の如きに於ても、将軍もこの文化に奉ずるためには、武器を措いてあの小さな身一つだけくゞれるにじり口をくゞつて文化の聖堂に入つたり、「花」を床の間に拝したりしなければならなかつたことを思つたりして、今日に於ても何か斯ういふやうな国の文化への奉仕の道も自分達にあるのではないか、例へば自分達が戦場に行つてゐる間に、書きまくり書きまくりしてそれが却つて売れてゐる文壇の景気など、筆をとつて書いたりする自分達に係りのありやうもないけれども、何か、少なくとも書かない詩人として(そんなことを誰も認めてくれないが)誰にも知られずに生き或は死んで行く、或はわざとの実生活出離といふやうな行動が、せめて諷刺(イロニー)にでもなり得ないか、などと、全くはかなくとりとめのない呟きとして胸中を寂しく往来した」(『有心』)

「直な情け」を求める「隠遁」による「養生」が、また日本の現実に対しては「イロニー」としても機能すると蓮田は見ていたようだが、近代においては素朴なものはイロニーの極致で初めて実現する――というのは、ドイツ・ロマン派のフリードリヒ・シュレーゲルも言っていたことである。

ところで、蓮田善明は『大津皇子論』で、

「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知つてゐる」(『大津皇子論』)

と書いているように、その自決とも相まって「死の文化」の歌い手としてのイメージが強い。『鴨長明』で述べた「養生」と『大津皇子論』で語られた「死の文化」は、蓮田の中でどのように整合していたのだろうか。

僕はここで、「養生」という言葉と「夭逝」という言葉が、漢字の表記では同音としても読めることに一つの「イロニー」を見たい思いにかられる。「養生」を語った蓮田は、しかし現実には大東亜戦争敗戦直後、出征先のジョホールバルで上官を射殺した後にピストル自殺し「夭逝」している。蓮田における「生」と「死」の関係。「夭逝」が「養生」となり、しかもそれが「諷刺(イロニー)」でもある。あるいはイロニーによって蓮田は「夭逝」と「養生」を重ね合わせようとしていたのではないだろうか。

生きることが「生を養う」ことを意味するのでなければ死ぬべきだし、死ぬことが「生を養う」ことを意味するのでなければ生きるべきである。蓮田においては、生きるか死ぬかが問われているのではなく、その生や死が「養生」を意味するかどうかが問われているように思う。そして、早く死ぬことが「生を養う」ことと見定められれば、「夭逝」は「養生」ともなるだろう。

そしてその蓮田の「養生=夭逝」のイローニッシュな志は、やはり三島由紀夫へと受け継がれていたように思う。『鴨長明』のラスト近くで、蓮田は『方丈記』で書かれる長明の「年少の友」に印象深く触れているが、蓮田が少年時代の三島を「我々自身の年少者」と呼び愛したことは有名である。蓮田は長明の「年少の友」に少年時代の三島の姿を重ねていたのではないか。

歌人の島内景二は、『三島由紀夫――豊饒の海へ注ぐ』(ミネルヴァ書房)で、三島を「和歌の申し子」と規定し、三島の装飾の多い絢爛たる文体は和歌の「序詞」の技法の近代日本散文への応用の成果であるとか、三島は常に和歌の「懸詞」の技法を援用して言語パフォーマンスを展開していた、等々の興味深い指摘をしている。そして島内景二によれば、「豊饒の海」は「方丈の海」でもあり、三島はあの有名なコロニアル様式の大森の邸宅も鴨長明的な一種の「方丈」の庵と見立てていたのであって、紛れもなく三島は日本文芸の隠遁詩人の系譜に連なる文人であった、と論じている。

「方丈」を「豊饒」の懸詞にして、「夭逝」を「養生」へと倒語してみせたことこそ、蓮田=三島師弟の「直な情け」の恐ろしさである、といえるだろうか。
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