フォルムの実際 19世紀 外光派の可能性
日本の西洋絵画(油彩画)のルーツは19世紀のフランス、サロン系絵画になる。当時のフランスアカデミック絵画が日本の高等教育における油画として採用された。アカデミック系の教育体系も日本に導入され、それが広く普及し現代に至っている。ブグローが美術大学で教えていた描法が、日本に伝わったわけだ。黒田清輝達がフランスに留学していた頃は、ブグローも画家として大学教授として現役で活躍していたので、日本と印象派の関係よりも、ブグローとの関係の方が実は濃密だった。黒田清輝達は、当時主流だったサロン系絵画を選択し、新興の印象派の絵画を学んではいなかったので、日本には印象派の絵画は導入されなかった。これは、意図的にそうしたものだ。その後、白樺派の作家達が、日本に印象派を紹介していく。日本に最初に紹介された印象派の絵画は、雑誌に掲載された荒い白黒の図版だった。その後、カラーの印刷物を展示した印象派展が開催される。そんな時代だったのだ。当時のサロン系の絵画は、折衷派と言われた。印象派の影響もサロンに及ぶようになり、サロン系の多くの画家が印象派の技法を取り入れるようになる。日本と同じようにフランスに絵画留学してくるアメリカ人も多かった。アメリカの絵画留学生は、ニューヨークで印象派展を開催して以降、急激に増えたようだ。モネの名前がアメリカでも有名になり、印象派に憧れた画家の卵達は、パリではなく、モネが住んでいたジヴァルニーに集まるようになる。ジヴァルニーは、パリから見てセーヌ河の下流、西寄りの静かな村だった。そこに、アメリカ人の若者達が大勢押し掛けてきて、静かだった村が観光地のようになっていく。当時パリに留学していた黒田清輝もそれを目撃していて、その様子を伝えている。黒田清輝達の目的は西洋絵画を日本の大学教育に取り入れる事だった。10年程の留学の後、黒田清輝はサロンに自分の作品が入選すると、留学を切り上げて日本に帰国。1896年に東京美術学校(後の東京芸大)に西洋画科が新設され、黒田清輝は教官として就任する。東京美術学校に西洋画科が新設される前には、1876年に工部美術学校が開校、画学科で、イタリア人のフォンタネージが西洋絵画の指導を行なっていたが、日本にいたのはわずかに2年余りで、その後にやって来た教師は、学生と上手くいかず、いろいろあって工部美術学校は1883年には閉鎖されてしまう。その時に、西洋絵画を指導できる日本人の教師が必要だと痛感したのではないだろうか。黒田清輝達は、日本に本格的な西洋絵画を伝えると言う大役を担っていた。当時、大学で教えられていたアカデミックなサロン系の絵画が、印象派に駆逐されてしまうとは思ってもいなかっただろう。西洋絵画の流れそのものが大きく変わる過渡期に黒田清輝達は立ち会っていたのだが、それに気付く事はなかったのだろう。黒田達は、サロンの権威を重視し印象派を無視していた。その黒田達が日本に伝えた西洋絵画が外光派だ。外光派を印象派の事だと思っている人もいるが、別物だ。ブグロー達が教えていたフランスのアカデミック絵画(大学で教えられていた絵画)を日本は西洋絵画として導入した。日本の西洋絵画にはブグローの遺伝子が流れている事は確かだ。だが、印象派の台頭と共にサロンも変化し、ブグローは反印象派の画家として西洋絵画の歴史に沈み。日本の西洋絵画教育からもブグローの名前は消えてしまう。黒田清輝達がフランスに留学していた頃に、アメリカ人絵画留学生が大挙してフランスにやって来ていたが、エコール・デ・ボザールに入学するアメリカ人もおり、サロン系の絵画を学んでアメリカに帰っている。そう言うアメリカ人は、黒田達と同じようにアメリカで外光派の絵画を描くようになる。日本でも、本人は、印象派風の絵画を描いていると思っていても、実は外光派の絵画だと言う場合もある。日本には19世紀のサロン系絵画の遺伝子が伝わっているので、どうしてもそうなってしまうのだ。現代、19世紀のサロン系絵画が再評価されているのは、日本の西洋絵画を見直すチャンスになるかも知れない。セザンヌやゴッホ、ゴーギャン等ポスト印象派の画家達は、印象派から影響を受け、その後自分達の絵画を展開していく。それと同じようにサロン系絵画も、印象派との対立を経て、印象派の絵画との融合を試みている。だが、サロン系絵画は、その後の西洋絵画では主流からは外れ、歴史に沈んで行く。どうして、ここまで、サロン系絵画が叩かれ、歴史的に抹殺されるような扱いを受けたのかは、謎も多い。この時代のさらなる研究が待たれる。それでも、具象絵画として静かに潜行しながらも続いてはいた。まったく流れが断ち切れていた訳ではないために、技法が残ったのだ。むしろ、印象派の技法が後世に上手く伝わっていないのが問題ではないかと思える。モネは弟子を取らず、若い画家にも指導は行なわなかったので、モネの描法は描いた作品から推察する意外にない。義理の娘であった女流画家のブランシュが、モネと共に絵画を描いていたため、モネの作風を良く伝えていると言われる。当時留学していたアメリカ人画家達の中の外光派になる画家達は、印象派を隠れ蓑にして生き残っていく。アメリカの外光派も黒田清輝の描法と似たところがあって、外光派は、外光派として同一の傾向を示している。外光派の絵画を主に研究していた人がいたかどうかは知らないが、印象派の絵画との違い、そして、共通点を認識する事で、外光派の可能性を発見できるのではないか、とも考えている。外光派は折衷派で、強い個性をあまり見せない絵画でもあり、その後の西洋絵画の流れからは、傍流に甘んじるイメージが残っている。古典絵画と印象派との融合を試みた絵画とも言える。こう言う絵画を研究すると、意外な発見がある。隠れてしまうような描法が表に出ている場合があって、秘密の描法が見つけやすいと言う特徴を持っている。
画像は、ロバート・ルイス・リード (Robert Lewis Reid)の作品。左は、その全体図。丹念に描き込まれているように見えるが、実は、中と右はその拡大画像で、地塗りの部分がスケスケで、かなり荒い描法になっている。ロバート・ルイス・リードは、フランスのエコール・デ・ボザールでサロン系絵画を学び、その後、印象派の描法を取り入れた外光派の画家になる。人物の基本的な捉え方にアカデミックな要素が滲み出ている。だが、描法は印象派風、それも、かなり荒い描法で、そのために、色の積層の方法が良く分かる。グレー系の有色下地に、同系色の明度の異なる色を積層、また、濃いグレー系、もしくは茶系の明度の沈んだ色に明度の高い色を散らすように筆致を活かして乗せている。下地が、色として利用されているので、それで絵画として成立してしまうのだ。荒い筆致だが、モデルやモチーフの捉え方が的確なところに外光派の真骨頂がある。一度、脳の中で、デッサンがしっかりとされており、その後、出力として、色彩が踊るようにキャンバスに乗せられていく。いろんな色彩が踊るように散らばる様を遊色と言うのだが、その遊色効果も現れている。外光派の絵画には、古典絵画にも通じるような高いデッサン力が必要になる。モチーフがしっかり見えていないと決して描けない作品だ。ここでも、派手な色味に目が行ってしまうだろうが、重要なのは、その派手な色を目立たせる脇役の存在だ。描き手にとって、この脇役をしっかり押さえる事が胆になる。下地のグレーをどうして残しているのかを考えてみて欲しい。油絵の具は、何の工夫もなく描いても、思うような発色はしてくれない。
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