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2015年04月02日14:15

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ジョンとシンシアのバラード



昨日、ジョン・レノンの最初の妻、シンシアが亡くなった。それに合わせて、息子のジュリアンがシンシアに捧げる「In Loving Memory」をYoutubeにアップしている。

エイプリル・フールに亡くなるというのは、訃報も嘘でした、実は生きているんです――という「生存説」を残すことにもなりそうで、いわば「永遠の生」のイメージにも繋がり、死ぬ日としては4月1日はなかなか悪くないように思う。

シンシアは1939年生まれの75歳だった。ヨーコもシンシアもジョンより年上。姉さん女房を選び続けたあたりにも、ジョンのマザコンな一面がよく表れているような気がする。そして、七つ年上で、一つ年上のシンシアより、さらに「マザー」的な性格の強いヨーコに、依存的性格の強いジョンを奪われることになったのも、仕方なかったのかもしれない。

ヨーコ(ドント・レット・ミー・ダウン、オー・ヨーコ)やショーン(ビューティフル・ボーイ)やジュリアン(グッドナイト、ヘイ・ジュード、ハッピー・クリスマス)に捧げられた曲は有名だけど、そういえばシンシアに捧げられた曲ってあったかな――と思ったのだけど、思い出せない。「ノルウェイの森」はシンシアに隠れてやっていた浮気をモチーフにした曲だし、「アクロス・ザ・ユニヴァース」は離婚前にヨーコとの浮気がばれてシンシアに罵倒されたことをモチーフにした曲なので、これは愛を捧げた曲というわけではなく、亡くなったときに聴くには相応しくない。

初期ビートルズのジョンが書いたラヴソングはすべてシンシアに捧げられたものだと考えられなくもないけど、記号的・抽象的な歌詞が多くて、シンシアではなくて他の誰にでも当てはまるような曲ばかりである。だからこそ、初期ビートルズは圧倒的な大衆性を獲得し得たといえるかもしれない。誰もが自分に宛てられた曲なのだ、と感じることのできる間口の広さをパーソナルな性格の希薄な初期のビートルズの楽曲は有していた。ジョン・レノンは他者との関係性に強力に影響を受けるタイプのアーチストだけど、良かれ悪しかれ、彼女のためを強く思って曲を書くほどに、シンシアはジョンに強い影響を与えられるような強烈な性格の女性ではなかったのだろう。しかし、シンシアがごく平凡な、中産階級的な常識と感性を備えた女性だったからこそ、初期ビートルズにおけるジョンは誰からの影響からも自由に音楽のみに集中でき、ビートルズを世界的なバンドに押し上げた珠玉の名曲群を書くことができたのかもしれない。「プリーズ・プリーズ・ミー」「フロム・ミー・トゥー・ユー」「テル・ミー・ホワイ」「イフ・アイ・フェル」といったジョンの手になる初期ビートルズの楽曲群は、中期や後期にはない瑞々しい素朴な大衆性と普遍性を湛えている。「アーチスト」目線で大上段に「愛と平和」を歌うのではなく、「無名の大衆」の目線で歌われるごく素朴な「恋」の歌として成立している。そしてこれも「影響を与えない」という関係性を保ったシンシアの貢献の賜物と考えれば、一歩引いた形でジョンを支えていたシンシアは、しっかりと「内助の功」を果していたといえるのではないだろうか。シンシアがヨーコみたいな強烈な個性と自己主張の持ち主だったら、初期ビートルズの音楽性もいま残されているものとは相当変わったものになっていただろう。特定の曲を捧げられなかったことこそ、シンシアの最大の功績なのだ。

しかし、ビートルズ中期以降、マザコン的性格の強いジョンは、シンシアを捨て、自分をより強力に支配してくれるヨーコを選び、ヨーコとの強烈な関係性の中で表現活動を行っていくことになる。ヨーコとの関係性の中で獲得したものも多々あるだろうけど、シンシアと別れてジョンが失ってしまったものを、いまは偲びたい。


■シンシア・レノンさん死去=元ビートルズの故ジョン・レノンさんの最初の妻
(時事通信社 - 04月02日 07:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=3351096
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