mixiユーザー(id:1737245)

2015年03月24日17:50

3467 view

三島由紀夫と橋川文三・再考

フォト

フォト

フォト


三島由紀夫の天皇論の集大成である『文化防衛論』を巡って交わされた三島と橋川文三の論争は昭和文学史上に名高い。

三島は『文化防衛論』で、「ザインとしての天皇」に「ゾルレンとしての天皇」を対置するという構図で、近代立憲体制に取りこまれた明治以降、「ゾルレンとしての天皇(文化概念としての天皇)」はその文化の全体性と連続性を喪失し、本来、「みやび」によって「テロル」や「アナーキー」すらも包摂し、日本史上における革命の原理ともなる機能を天皇が失ってしまったと説き、その天皇概念の頽落の象徴的事件として二二六事件の「悲劇」を意味づける。そして戦後、日本国憲法によって統帥権を否定され、天皇と自衛隊との「紐帯」は決定的に断たれ、天皇の体現する「文化の全体性・連続性」は見失われてしまった、この状況下で革命が起きれば、「天皇制下の共産政体」という倒錯した事態すら実現しかねない、それを防ぐためには、栄誉大権を復活し、天皇と自衛隊を栄誉の「紐」でつないでおくしかない、そして、栄誉大権の復活は、明治憲法的な「政治概念としての天皇」の復活を意味するのではなく、あくまで「文化概念としての天皇」の復活を意味するものでなければならない――と三島は論を結んでいる。

1968年に書かれた『文化防衛論』の危機意識は、当時の共産主義を奉じる学生運動の昂揚や全世界的な革命思想の流行を念頭に置かないと、現代ではなかなか理解しづらいものになっているかもしれない。しかし、共産革命から天皇(文化)を防衛しようという危機意識は現代ではアクチュアリティを失っているかもしれないが、「共産革命」を「グローバリズム」に置き換えれば、近代化に対する固有文化の最後の抵抗の拠点である「悲劇意志」として天皇を位置づける三島の天皇論はまだ現代的な意義を失っていない、と僕は思う。

この三島の『文化防衛論』に対して、橋川文三は『美の論理と政治の論理』という論文で批判を行った。橋川は三島の「文化概念としての天皇」というアイディアを幕末国学の尊王攘夷論の現代版として位置づけ一定評価しつつ、しかし、「政治概念としての天皇」と「文化概念としての天皇」を分けて論じようとする三島由紀夫の論理の矛盾を衝いて批判する。

そもそも、二二六事件を待つまでもなく、すでに維新政府に取り込まれた天皇は西南の役において西郷が体現したアナーキーすら容れる力を失うほどに政治化していたのであり、さらに天皇と自衛隊を栄誉大権で繋いだ瞬間に「文化概念としての天皇」の非政治的純粋性は失われ、忽ち「政治概念としての天皇」へと頽落することになるのではないか――と。

この橋川の批判を、反論文である『橋川文三氏への公開状』で三島自身が次のように要約している。

「三島よ。第一に、お前の反共あるいは恐共の根拠が、文化概念としての天皇の保持する『文化の全体性』の防衛にあるなら、その論理はおかしいではないか。文化の全体性はすでに明治憲法体制の下で侵されていたではないか。いや、共産体制といわず、およそ近代国家の論理と、美の総攬者としての天皇は、根本的に相容れないものを含んでいるではないか。第二に、天皇と軍隊の直結を求めることは、単に共産革命防止のための政策論としてなら有効だが、直結の瞬間に、文化概念としての天皇は、政治概念としての天皇にすりかわり、これが忽ち文化の全体性の反措定になることは、すでに実験ずみではないか」(三島由紀夫『橋川文三氏への公開状』)

そして、この橋川の犀利な批判に「ギャフンと参った」といいつつ、しかし三島はこうも書いている。

「結論を先に言ってしまえば、貴兄のこの二点の設問に、私はたしかにギャフンと参ったけれども、私自身が参ったという「責任」を感じなかったことも事実なのです。なぜなら、正にこの二点こそ、私ではなくて、天皇その御方が、不断に問われてきた論理的矛盾ではなかったでしょうか。この二点を問いつめることこそ、現下の、又、将来の天皇制のあり方についての、根本的な問題提起ではないでしょうか」(同上)

そもそも論理的矛盾の上に存在している近代天皇を論じているのだから、自分の天皇論もまた論理的矛盾に逢着するのは避けえないことであり、この責任は自分ではなく天皇という存在そのものに帰せられるべきである――という言い分である。また、三島は茨城大学の学生とのティーチ・インでも、橋川に論破されたとは思っていないような発言をしている。

「橋川さんは丸山眞男さんの弟子ですから、方々に気兼ねして発言しておられるので、本当はぼくに全く賛成しているのだと思うのです。(中略)橋川さんはつまり政治概念としての天皇の復活ということの危険を大いに強調しないと立場がまずいのですな。私はそんな危険はないと確信しているのです」(三島由紀夫『学生とのティーチ・イン』)

橋川の弟子である宮嶋繁明は『三島由紀夫と橋川文三』(弦書房)で、三島と橋川の論争を、同じく橋川の弟子であった猪瀬直樹がいうように橋川が三島を一方的に「論破」したものでもなく、また柄谷行人が指摘するように三島に最も「敵対しえた」のは橋川であると捉えることもなく、三島・橋川の両者と交流のあった辻井喬の言を借りて、誰よりもお互いを理解し合っていた者同士の「痛み分け」であった、という風に意味づけている。

そして僕も、辻井や宮嶋とやや異なる理由から、三島と橋川の論争は両者の「痛み分け」であったと思うようになった。それは、橋川の三島への批判の論理は、そのまま実は橋川自身のナショナリズム論への批判の論理にもなるように思うからである。

橋川は、三島の「ザインとしての天皇」と「ゾルレンとしての天皇」が現実において截然と分けられるものではないことを指摘し、その批判の正しいことを三島も認めているが、橋川が『ナショナリズム――その神話と論理』などで展開した「ネーション」に「パトリ」を対置するという議論も、実は現実において論理的矛盾に逢着する。「ネーション」と「パトリ」は現実においては截然と分けられるものではない。「パトリオティズム」は現実的な政治過程においては常に「ナショナリズム」に転化する危険を孕んでいる。そもそも、三島の「ゾルレンとしての天皇」が一種のロマン主義的概念であるのと同じように、橋川の「パトリ」もまた一種のロマン主義的概念である。両者とも近代化の矛盾の中で事後的に幻想された理念的な「ハイマート」である。「ゾルレンとしての天皇」によって「ザインとしての天皇」を批判しようとする三島の議論が現実的には結局「政治概念としての天皇」に回収される危険を孕んでいたように、「パトリ」によって「ネーション」を批判しようとした橋川の議論もまた現実的には結局「ネーション」に回収される危険を孕んでいる――そしてそのことは橋川自身が『ナショナリズム』で論じてもいる。その『ナショナリズム』の末尾を、橋川は次のような文章で結んでいる。

「日本人は、今にいたるまで、かつて真に自らの「一般意志」を見出したことはなかったといえるかもしれない。なぜならば、かつての天皇制のもとでは、天皇の意志以外に「一般意志」というものは成立しないと考えられたからであり、もししいて天皇制のもとで国民の一般意志を追求しようとするならば、それはたとえば北一輝の場合のように、天皇を国民の意志の傀儡とするしか道はなかったからである。後者の道は、二・二六事件によってその不可能が立証された。日本人の「一般意志」は、それ以来いまだ宙に浮いたまま、敗戦後の一世代を迎えようとしているというべきかもしれない」(橋川文三『ナショナリズム――その神話と論理』)

三島も橋川も、二二六事件において近代天皇がその孕む論理的矛盾を一種劇的に暴露しているという認識を共有していた。

橋川の『ナショナリズム』が出版されたのは、三島の『文化防衛論』が発表されたのと同じく1968年のことだった。三島が『文化防衛論』で行き当たった近代天皇という存在が孕む論理的矛盾に、時を同じくして橋川も『ナショナリズム』で行き当たっていた。同じアポリアに対峙していることをお互いに深く知悉し合っている者同士の、一種の高級漫才(ボケとツッコミ)として展開されたのが、三島と橋川の論争だったのではないだろうか。

――そして、漫才的コミュニケーションとは何か? 鶴見俊輔によれば、漫才とは、

「まちがっては恥をかき、まちがっては恥をかき、たびかさなるうちに度胸ができ、しまいには、恥をかくことが快楽になってくる。ここに、漫才の力強い楽天性がある。恥の重みにたえかねて自殺した太宰治、田中英光の系列に代表される日本の知識人とくらべるとき、漫才に代表される庶民的人間像は、解毒剤である」(鶴見俊輔「漫才の思想」)

自分のツッコミによって、三島が「知識人的自意識」から解毒され、鶴見俊輔の言う「庶民的楽天性」を獲得した後に、まったくあらたな天皇論を展開することを、橋川は期待していたのではなかろうか――というのは、僕の無責任な空想である。
2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する