9月12日土曜日、2時間おきに霧雨が舞っているような曇天。
午後イチ、裏小町にある一軒家ギャラリー「ジ・アース」に向かう。石黒隆宗展「日々の色」の初日。イシグロ君は私と同じ町に住んでいて、知り合って10数年になった。
彼も私も鎌倉駅前の「エクセルシオール」利用者で、会えば同じテーブルに移動し合って長話を交わす仲だ。昨日、私は午後2時、エクセルシオールに行って、タブレットで長編小説を一冊読むことになったのだが、さすがに個展前日は忙しかったのだろう。会えずじまいだった。
何気なく過ぎる日々の中には、無限の可能性に満ちた色彩と詩が、さりげなく存在しています。そんな移り変わりを日記を書く様に画面に留めて行きます。
「ジ・アース」に入る前、案内状に書かれているこの文言を読んだ。予習というより頭のストレッチのようなもので、こういう準備をしないことには絵の面白さが頭に入ってこないのだ。彼の版画は抽象なので、私の美的教養はないに等しい。
イシグロ君と1分ほど立ち話をしたのち、作品を一点一点眺めてみる。心地良さを感じるものの、それ以上の感想は涌かない。
と、画廊のオーナーワカヤマさんと話をする機会を得た。
話は、アートは自己満足で完結したと言えるのか、観てもらって完結するのか、という結論のない命題になった。
これは絵に限ったことではなく、詩でも小説でも歌でも考えさせられる疑問だ。
ワカヤマさんは、こんな話をされた。
「画廊のオーナーは画家と同様、自身の芸術観を反映させたいと思ってるんです」
自己満足の産物でいいのか、それでは絵の価値はないのか、はっきりとはおっしゃらなかったが、ほぼ私と同じ判断だろうと思えた。簡単に言うと、白黒をつける二択ではないということだ。
世界も個人も孤独である。
ゆえに、相互作用がまったくないアクションというのは寂しすぎる。
とにもかくにも、こういう命題を解きたくなるような個展だった。
mixiだからイシグロ君はこの日記を読むこともないだろうな。
いずれエクセルシオールで会うだろうから、こんな議論をしてみたい。
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