8月27日快晴。
朝10時、予定通り家から徒歩10分の総合病院へ行って、持病の薬を処方していただいた。この時間、病院のロビーは老人ホーム状態で、耳が遠いせいで声が異常にでかいひと、ヘルパーさんがそばに付いている車椅子のひと、杖をつくひと、会計窓口でカードの暗証番号を忘れてあたふたしているひと、ずうっとガラケーで通話しているひと等々、傍観していると気が滅入ってくる。私より数歳から一回りくらい上の年齢層だが、ということは自分も数年後にはその仲間入りになってしまうのか。
昼食後、校正にいそしむ。少なくとも気持ちだけは(苦笑)。
仕事部屋が2階にあるものだから室温は連日33度に達している。
アホでADHD的落ち着きのなさの私は、40分程度で集中力が途切れてしまう。しかも、著者(故人)は私を遙かにしのぐ発達障害者なので文章に間違いが多く、既に4校段階まで来ているのに言葉の用法が間違っていたり、てにをはが怪しかったりで、いまだに(こそっと)私が直している。本来、全集は一言一句原文通りというのが原則ゆえ、自分が不正な書き換えをしているという罪の意識がある。しかし、あまりに稚拙な間違いが多いと、著者の評のみならず無編集ではないかという出版姿勢が問われてしまう。その狭間でかれこれ4年、私は苦しみ続けている。あるときは間違いであってもイキママとし、ある箇所では大胆に書き換えをし、あるときは句読点の打ち方で文意をわかりやすくする程度の工夫を重ね、あるときは編者の註釈をいれて読者に理解を求めている。
良心や誠実さというのは、その基準が曖昧なものだ。
極端に言うと、1時間ごとに”ハードル”の高さは変わる。
詩人が書き殴ったノートに、こんな一文があった。
<机の上には椚(くぬぎ)の落葉と松の心がある。>
松の心ではなく、松の芯であろう。
松の心は、全部で3箇所出て来た。
そして私は再校時、松の芯に直しておいた。が、3校で一箇所、松の心に戻した。意味は通じるし、詩人の草稿に忠実でありたい、と。
しかし、今回の4校を見ると、その松の”心”に担当編集者が”芯”と赤を入れていた。そうだよね、と思いつつ、編集者を恨めしくも思う。
彼はこれまで出会った編集者のなかでも一番ではないかと思えるほどの生真面目なひとで、当初の打ち合わせでは彼のほうから「基本、著者の草稿はいじらない!」という方針を掲げた。が、私はその禁を破りに破って直しまくっている。
で、4校になると、この手の赤が入れられている。
実は彼も迷っているのだ。よくわかる。
今日の日記は、ホンネ満載の泣き言になってしまった(苦笑)。
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