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2025年07月30日20:34

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津波警報発令下の材木座海岸

 7月30日水曜日、晴天。
 コーヒー片手に朝刊を読んでいると、隣室に置いていたiPhoneからけたたましい警報音が鳴っていた。どこかで地震が発生か、と思ってテレビ(NHK)をつけると、カムチャツカで発生した巨大地震によって日本に津波が到達する可能性が大だと、繰り返し報じている。我が家は山の中腹にあるので、iPhoneの警報をうるさく感じつつ、普段どおりの日常(ルーティン)を過ごした。
 正午前、ふたたびテレビをつけてみたら、津波到達の危険性と日本の各沿岸の様子を長々と映し出している。まだ津波の被害が発生していないものの、第2波3波が発生する可能性を強調していた。
 午後1時半、うちから距離にすれば1.3キロの材木座海岸まで行くことにした。
 テレビニュースで「海岸から離れて高い場所へ避難してください」など20回30回も注意されると、その逆をやりたくなってくる。丸山健二の短篇「台風見物」を想いながら、久方ぶりに海岸と海の様子をつぶさに観察してみよう、という気が湧いて来た。
 頭上から下りてくる直射日光が痛いほどに眩しい。海までの道は都会と違ってせいぜいが2階建ての家ばかりなので、日蔭がないのだ。通りを歩いているひとは前後数百メートルを見てもひとっこ一人いなくて、10数分の一本道でわずかに自転車を漕いでいる女性が2人きりだった。
 海岸に着いた。
 波は穏やかだ、
 が、右(西側の由比ヶ浜)を見ても左(東側は材木座海岸と逗子マリーナ)を見ても、海水浴客はゼロ人だった。立ち並んでいる海の家はいずこも、従業員なんだろうか、所在なげに座っている若い男たちがいるだけだった。
 しばし海に見とれる。
 人いきれがないせいか、夏なのに逗子マリーナがくっきりと目に映る。
 波打ち際から陸のほうを眺めてみると、建ち並ぶ海の家。
 ふと漱石の『こころ』を思い出す。主人公の学生がここ材木座海岸の海の家で「先生」を見つけ、そのうち話しかけるまでの関係となり、親しくなっていく。漱石は社会人以降もときどき読んで、その都度多少なりとも影響を受けたのだが、『こころ』は高1の授業で習ってそのあと全文を読んだに過ぎないのだから、50何年前の記憶しかない。うちに戻ったら、AmazonのKindleにゼロ円本があるので読んでみたい……。
 これだけで海まで来た甲斐があった。
「先生」は世間から隠れるようにひっそりと生きているのはどういう理由だったのか? それがテーマなのに、私は大学生の主人公と年齢が近いせいで、先生の蹉跌についてまったく覚えていない。
 来た道を引き返す。
 途中、バス停があって、そこに小さな身体の老婆がベンチに座っていた。
 声を掛けられる。
「バスが来ないんですけど」
 そう言われて気がついた。来る時も、このバス停まで引き返している今も、1台のバスも見なかった。
 たぶん運休している。JR各線も京浜急行もこの時間まで走っていなかった。
 バスの時刻表を見ると、案の定京浜急行バスだった。
 老婆はヒロ病院まで行きたいのだという。距離はそうだなぁ、600メートルくらいか。
「ぼくが介助するので一緒に歩きませんか」
 と言ったら、
「わたしは歩くのが遅いのでひとりで歩いて行くことにする」
 というように応えた。
 しばし老婆を見ていると、彼女は立ち上がった。
 私は先に歩いて、100メートル歩くごとにうしろを振り返って、老婆の様子を見守った。老婆との距離が10メートルになると私は先に歩き出す。
 途中、ヒロ病院に行くには家とは違う方向へ折れなければいけない。
 曲がり角で老婆が歩いて来るのを見て、私は軽く手を振った。
 彼女はゆっくりとゆっくりと歩いているのだが、まったく休む気配がない。
 暑くて早く家に戻りたかったが、ヒロ病院まで見送ることにした。老婆に敬意を覚えたからだ。
 病院に着いた。老婆は私に向かって手を振り、エントランス・ドアの彼方へ吸い込まれて行った。
 考えてみたら帰りもほとんど人には会わなかった。
 津波警報が発令の日、熱中症アラートも発令の日。
 有川浩の『塩の街』は世界が破滅しようとする日に一組の男女が誰もいない街を歩いているデストピア小説だが、私と老婆は絶望することもなくゆるゆると鎌倉の住宅地を数十メートル間隔の手つなぎで歩いた。
 津波警報がiPhoneからしばしば鳴り響いているのに、なんだか平和な気分だ。
 自宅に着いて冷水シャワーを浴びて人心地がついた。
 冷蔵庫にあるスイカを食べたくなったが、いま食べたら、夜のデザートがなくなるので我慢した。
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