目の中に入れても痛くないほど好きな友人。
今週はじめ、彼にiPhoneで「退院日は決まった?」とメッセージを入れたところ、その1時間後、電話があった。
「いま、ICUからなんだ」
アイ・シー・ユー? アイ・シー・ユーって、患者がスパゲッティ状態になるあの集中治療室のこと? 黙りこくっていると、
「国際基督教大学、なんちゃって」
と、彼は笑った。
私は笑えない。
電話がかかる30分前、私は購入したばっかりのクルマを四方八方からうっとりと見つめたり、運転席に座って各スイッチの機能をチェックしたりしていて、上機嫌だった。
その愉快さと彼の病状(とその重篤さを知ってしまった者)の陰鬱さのギャップは計り知れない。自分が悪いことをした覚えなどないのに、頬を叩かれたような痛さを感じた。
頸椎症の痛みはとくに就寝時が半端なく、痛みで目覚めてしまう。しかし、鎮痛薬の飲み過ぎは胃を傷めるし、就寝前に2種類の睡眠薬を常用していることもあって、これ以上神経機関に働きかけるクスリは飮みたくない。
この5日間、彼のおかげで、はしゃいで抑制が利かないような軽薄さがなく、結果としては落ち着いて詩人全集の校正ができた。
少なからず人生観が変わらざるを得ない。
人生を浪費する者の人生は短く、一所懸命に生きる者は長き人生である、というようなことをセネカが『人生の短さ』という本の中で説いていたが、数年ぶりの思いだした。
新聞を読んでもテレビでニュースを見ても、人品が卑しいとしか言いようがない人物で溢れ、その腐臭で自分の感性が汚れてしまいそうになる。
人間総体に対しての親愛感情が失せてしまったら、私という存在は新聞テレビでニュースになる人物以下の穢らわしい人間に堕してしまう。だから今週、テレビニュースを途中で消すことが増えた。
明るい話を私は欲し、探している。
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