朝から強風が吹いていた。
午前11時、なにげにネットで干潮表を見たら、まさに今、干潮時間を迎えていて、しかも大潮だとあった。
部屋を掃除してから海へ行くことにした。逗子、葉山、鎌倉の海は2月20日くらいから1カ月間にわたってワカメが採れる。9割方は養殖だが(漁師のもの)、ほんの少し天然物もある。もっとも養殖場からちぎれ出た漂着ワカメであろうが、浜辺で拾っても漁師は黙認である。
由比ヶ浜と材木座の海岸でワカメが確実に落ちている場所は2つある。
そのスポットへ行ってみたら、台風時より風が強いのではないか、と思えるほど海は荒れていたのだが、波打ち際を20分ほど歩いても、一欠片のワカメさえ落ちていない。こういう日はワカメ取り放題だと想ったのにな。残念、時期尚早だった。3週間くらい置いてまた来よう。
県立文学館所蔵の資料一覧を手許に置いて、自分が既に目を通した以外の資料を探す、という根気の要る作業を1時間ばかりやってから、ラズリの散歩に出た。風は相変わらず吹き荒れていたが、温暖な風ゆえ、むしろ暖かい。
日暮れ前、朝日土曜日の別刷り「be」を読んだら、作家・奥田英朗の4回連載コラムがあって、読んでいると妙に自身の過去が懐かしかった。奥田は20歳代前半頃、小さな広告会社に勤務していて、給与は安く残手もないような会社だったが、夕食代と夜食代は会社持ち。で、夕食は出前でカツ丼の大盛りとか炒飯の大盛り、さらに深夜は同僚と連れだって牛丼屋やラーメン屋へと行っていたそうだ。
私も彼と同じ大阪で週刊誌の記者をやっていて、似たようなものだった。原稿の締め切り日は翌朝朝7時までに「新幹線便」で原稿を送る。原稿全部をまとめ終えるとたいてい午前4時近くになって、開いている(安い)食い物屋は「吉野家」くらいしかなかった。
記者は5人くらいいたが、私とHが最後、すべての原稿をとりまとめ、ふたりで吉野家へ行き、領収書をもらって牛丼大盛りを食べていたのだった。吉野家で始発までの時間をつぶしがてら語らい合って、新大阪駅で原稿を送ってその週の仕事は終わる。
ぼくと同じ歳のHは6年半前の夏、亡くなった。当時の記者仲間も昨年亡くなったし、取材を通して生涯の友になったエロカメラマンは3年前に死んだ。
美食家ではないのだが、当時の牛丼は吐き気を催すくらいに不味かった。ぼくもHもよくこんな自嘲をしていたものだ、「朝の4時にこんなクソ不味い牛丼の大盛りを食べられる、という人間はこの先も仕事を続けられるだろう」と。
ぼくは毎日が初体験だった。記者になる前年は、話すやつと言えば大学教師予備軍の真面目な学生ばかりなりで、単調を絵に描いたような生活だった。それが一変、毎週、違法ゲームカジノの経営者とか、女狂いのイタリア人鍼灸師とか、豊臣財宝の宝探しをしている人とか、パチンコで「777」の大当たりが出た瞬間に喜びのあまり心臓発作を起こして亡くなった遺族に会ったりして、話を聞くのである。
毎号、吉本の芸人さんをインタビューするというコラムもひとりで担当していた。楽屋で取材して終わったら、売れない芸人さんが「喫茶店で美味しい珈琲飲みたいわ、ぼくら一回舞台に出て100円なんや。お兄さん、悪いけど奢ってくれへんか」と言われ、ええよと行って楽屋を出たらぞろぞろ芸人さんが付いてきて、10杯分の珈琲代を払わされる、なんてことがままあった。あれ、取材費で落ちたんやろか(笑)。こんなけったいな人たちと毎週会っているうちに、生きることは案外楽しいようだ、と思い始めた。仕事はめちゃくちゃ厳しかったが、私が属していた世間というものがそれまでは平板な一枚岩みたいな狭量さだったので、これは結構悪くないぞ、早朝の吉野家以外は、などと思ったものだった。
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