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2020年02月13日23:08

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米子の「ガイドと巡るまち歩き」は稀少な観光遺産です

 2月11日、松江駅13時17分発の山陰線普通列車に乗って、13時52分、米子駅(鳥取県)に着いた。駅員に「日本交通高速バス」営業所の場所を尋ねた上で発着所のすぐそばにある切符売り場へ行く。
 大阪行きのバスは事前に予約していたが、この時点では飛行機と同様でシートのチケットは未定だ。乗り物酔いが不安なのでなるたけ前の座席をとりたい。幸運にも前から2列目の1人席を確保することができた。
 米子では真っ先に「米子まちなか案内所」に行く、というスケジュールを立てていた。計画性のない旅を好む私には珍しい。
 少し駅前をぶらついてから、14時半発の「だんだんバス」に乗った。
「まちなか案内所」には事前に、15時発のバスで行くので15時30分頃に訪ねます、とメールを打っていたので、30分早いバスに乗ったということになる。
 まちなか案内所に着いたのは3時前だった。

『ガイドと巡るまち歩き』
米子の観光コースの特徴は、観光用施設を中心にあらかじめ決められたコースをめぐる従来型(見学中心)の観光コースではありません。個人の住宅(町家)など訪ねたり、座禅や抹茶お点前教室などの体験を通じて、そこに住まいする人々との交流や和文化の体験をしていただくというふれあい型の観光コースです。
                               (HPより抜粋)
 コースは4種類、挙げられていた。
 私は以下のようなメールを送っていた。
「11日JR米子駅に14時55分着、15時発のだんだんバスでまちなか観光案内所に近い停留所で降りて歩きますので午後3時半とさせてください。
 城下町満喫コースでお願いします。現存する江戸期から大正時代を感じさせる町並みや、そこはかとなく「文学」が感じられるような家屋を見ることができれば、と願っています。なお、私は歴史愛好家ででもなければ詩人でもありません」

 キザったらしいのは沢木耕太郎と同じで、孤独な旅人を装いたかっただけだ。
 案内所で待っていてくれたのは、事務担当の女性とガイド役の男性だった。名前を告げると、ガイド役のかたが名札を示しながら名乗られた。事務の女性からは「そろそろ米子駅までお迎えに行こうと思っていたところです。予定より早いですね」と言われて、そういう配慮もしていただけるのか、と思ったのだった。
「今日はこちらにお泊まりですか?」と訊かれたので、投宿先のホテル名を告げた。
「ここからまあまあ近いですね。歩いて行ける範囲です。そのお荷物は重いでしょうからこちらでお預かりしておきますね」
 ええ、助かります。松江でお味噌を買ったら、リュックが重くなっちゃって。
 女性が私のリュックを持つと、「ホントだぁ、これは重い、重すぎます」と笑い、「それならこのリュックは私がホテルに届けておきます。コースから考えると、そのままホテルへ直行してください」と言う。
 お言葉に甘えることにした。歩くのは苦痛じゃないが、重い荷物があると少しつらい。
 ガイド役の男性は私と生まれ年が同じだった。
 午後3時過ぎ、彼と一緒に案内所を出て、まず最初に旧加茂川に掛かる京橋へ。橋のたもとにお地蔵さんが祭られていて、そばに白と赤の御札が貼り付けられた板があった。
「米子には地蔵信仰が今なお息づいていて、ひとの身に不幸があると毎週1枚、白い御札を納め、四十九日に赤い札を貼って一区切りという風習があるのです」
 なるほど、それで白たくさん、赤少し、ということなのか。なんか妙に感心してしまって、手帳を取りだし<札打ち、赤い札は止め札という>とメモった。
「これは私だけの想像ですが、ひとは亡くなると49日間、川のような道を歩んで行くのです。悪いことを重ねたひとは水かさがが首のところまであって、普通の人は膝下くらいなので苦しいわけではありません。そして衣領寺(いりょうじ)で天国行きと地獄行きが決められるのです」
 これを聞いた瞬間、私はお地蔵さんの前にひざまづいて、頭を下げたのだった。
 ガイド氏は私の姿が滑稽だったのか、「いや、私の個人的見解ですから、真に受けないでください」などと笑う。
 私の趣向を見て取ったのだろう。それから次々に地蔵・札打ちを案内してくれたのだった。旧加茂川にはまだ江戸時代の作られた石段が残っている。要は、舟で運んだ荷を店や蔵に運ぶための石段だ。ガイド氏が石段を指差して、「いちばん上の石とその下の石をよく見比べてください。少し違うでしょ? 下の石は来待石(きまちいし)と言って、〇〇島から運び込まれた石なんです」(〇〇はメモ取ってないため記憶から落ちた)。
「正面にあるお宅を見てください」
 それが江戸時代の家屋だったり、明治初年でいまだ現役の家だったり。これって言われてみなければわからない。
 一軒の間口が狭い家の前に来て、ガイド氏いわく「入らせていただきましょう」。この家は鹿島家と言う。おじゃまします、と言いながら入ってみると、入口に近いお座敷にコタツに入っているご老人がいらっしゃって、どうぞ中へもっと中へ、と言ってくれる。
 中庭にしゃちほこがあった。
「米子城小天守の屋根にあった鯱鉾がひとつはここ鹿島家に、もうひとつは小学校に寄贈されてまだあるのです。米子城は明治12年の取り壊されて………」
 ガイド氏の話に耳を傾けつつ、しゃちほこを写真に撮った。
 明治然り、昭和10年代然りで、日本は伝統文化に対して価値が分からないのか、冷淡なのか、古い物は片っ端から壊した。米子城は2つのお城があったそうだが、今は城壁だけが遺っている。
 かようなわかりやすくて誠実な案内を午後4時半まで続けていただき、最終的にはガイド氏にホテルまで送ってもらったのだった。ホテルのあるエリアは「かつて西日本で第2位の歓楽街だったのです。1位が大阪の道頓堀で2位がここ米子です。私が少年の頃はおそろしいくらいに人が行き交っていて、賑やかでした。が、今は見る影もありません」
 ホテルの近くでほぼ廃墟タウンとなった歓楽街をつぶさに見ていた。ガイド氏には悪いので写真は撮らなかったが、ホテルにチェックインしたら戻って撮ってみよう。
 ホテルに着いたら、午後5時ちょっと前だった。
 ガイド料について詳しいことはわからないので尋ねてみたら、今日は1時間半とさせていただき、1500円でいいでしょうか? と言われた。もちろんです。
 フロント前で現金のままお支払いした。失礼なのだろうけど。
 彼はフロントマンに「ボランティアガイドでホテルまでご案内いたしました。今後よろしくお願い申し上げます」と頭を下げ、私にもありがとうございました、と礼を言って去った。
 フロントの人は私が名乗る前に「観光協会からリュックをお預かりしています」と言った。
 ホテルはとても立派な安宿で、ボロ宿だった。泣きたくなるくらいに郷愁が感じられて、台湾や返還前の香港みたいなうちひしがれ感がある。かつては繁華街の中で隆盛をきわめ、お金持ちの酔客がオンナを連れ込んだりもした欲望ぎらぎらのホテルだったかもしれない。が、今は欲望が萎んでしまうような佇まいだった。
 シングルの部屋にセミダブルのベッドがあった。
 小さな机には宿の説明とともに、小さな金色の鶴の折り紙が置かれていて、お客様に心を込めて、というようなことが書かれている。大滝秀治さんが泊まられた、ということが書かれた新聞コラムのコピーもあった。
 身体が冷えた。風呂は狭いユニットバスだったが、入浴剤一袋が洗面台に添えられていた。こういう気遣いがありがたい。
 
 自分がインフルエンサーでないのがつらい。 
 ぜひ米子に多くのかたが訪ねてくださいますように。
 米子は私が書くよりもっともっと魅力溢れる町ですし、古い日本が今もなおあちらこちらに残っています。そこらじゅうの道が鍵の手になっていたり、T字路だったりで、江戸時代の不便さもそのままです。歩くひとが歩けば、楽しいです。ぶらタモリを見ている人なら十人が十人、感動するはずです。

 
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