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2020年01月10日19:28

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十日戎の福男〜ヤンキー化するニッポン

 小学校6年の正月10日まで、実家は毎年、十日戎(えべっさん)に詣でるのが慣わしだった。父はメーカー勤務のサラリーマンなので「商売繁盛、笹持ってこい」を掲げるえべっさんに信心があるあけでもなく、御利益を願う気持も薄かっただろう。それでも私たち家族にとって1月10日は恒例の年中行事だった。時には父の終業を待って、日の暮れた西宮神社へ行って参拝し、夜店の屋台でなにがしかの駄菓子を買ってもらったし、休日に当たっていれば昼間、「ドッグラン」のように境内で放し飼い状態にさせてもらった。
 小学生の私は「福男」の存在自体を知らなかった。福男が同級生で話題になるようなことも一切なかったし、テレビニュースになるような一大イベントでもなかったように思う。
 かれこれ20年くらい前、インターネットがようやく一般化した頃にえべっさんや福男について検索をかけたことがあった。昭和30年代、開門前に並んでいた人数は数百人程度だった、という記事を見た。新iPhoneの発売日にアップルストアで並ぶヘビー・ユーザーよりも少ない人数だ。駆け込み式の福男選びは、阪神電車の開通と軍国主義の台頭で生まれたとも。
 今のパフォーマンスは20世紀になって以降、徐々に劇場化していった演出であって、古式ゆかしい伝統文化でもなければ西宮夷の歴史的な行事でもない。西宮神社は結構敷地が広くて、夜ともなると荘厳に映る。人出はそこそこに多いのだが、荒くれたイメージからはほど遠い。
 明治以降、日本文化はヤンキー化してきた。派手なパフォーマンスと、一般市民の「ワンチーム」的な昂揚。えべっさんに限らず、怪我人や死者がしばしば出るような人気祭りも、元はと言えば地域に伝わるごく一般的な祭事であって、テレビ映りだけに優れた絵的インパクトが備わったパフォーマンスではなかったと、私は(勝手に)想っている。
 作為が見える行事は胡散臭い。卑近な例で言えば恵方巻に代表される俗事で、太巻きを丸のまま恵方に向かって立って食べる、みたいなことをええとこのボンボンやお嬢ちゃんが昔からしていた、なんてことは、少し考えてみればあり得ないことがわかる。それなのにちょっとした奇習ぽさとお手軽さから見よう見まねでやってみる人も増え続けている。これなんかある意味、霊感商法に近い。不安を煽ってインチキな商品を売りつける商魂だ。もっとも壺と違って数百円からせいぜいが2千円程度の、しかも美味しい食べ物であるから、ムキになる自分もどうかしている、とも思うけれど。
 うちの近所にあるお寺でも、今日、十日夷で境内は賑わっていた。手に手に笹や飴などを持って、今年の開運を願う善人善女である。
 うちの近くにデーケアサービスの施設がある。ご高齢のかたをサポートしながらゆっくりゆっくりと歩く介護サービス者をしばしば見る。時にはお寺の境内で一緒に手を合わせる姿を目にすることもある。
 私にとって、福男(福娘)とはかような人である。仕事だとは言え、どこまでも人に寄り添うという行為は、並大抵の優しさではできない。
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