昨夜、知人から電話が掛かってきた。
「明後日12月9日は開高健の命日なんだ。来週あたり訪ねてみようよ」
というものだった。
2カ月ほど前、彼から、次に会うのは茅ヶ崎の開高健記念館がいい、という要望が出されていたのだが、私に余裕がなかったものだから延ばし伸ばしになっていた。
しばし考えて、「それならご命日に記念館、というのが理想だけど、その日は土曜日だということもあって混むだろう。だからいきなりだが明日でどうだ?」と答えた。
待ち合わせは正午、JR茅ヶ崎駅の中央改札で、と決まった。
天気予報では、明日の湘南一帯は午後から雨が降ると言っていた。
記念館は茅ヶ崎から2キロあまりで、1時間に1本のバス便はある。
雨が降らなければ、往きは歩いて行こう。茅ヶ崎には美味しいラーメン屋が多数あると聞いているので、ネットで記念館へ行く道すがらに評判のいいラーメン屋がないか、調べてみた。午後1時まで、雨が降らないでくれ、と思いながら、床に就いた。
本日、正午の10分前に茅ヶ崎駅着。
改札を出て知人を探したがいなかったので、北口の喫煙所に行って一服。そして改札口に引き返すと、彼はいた。
これはおかしい。私の乗った東海道線下り列車に彼はいなかった。次の列車はまだ到着していない。
なんでここにおるんだ? と問うたら、「実は1時間前に着いて、駅の周辺をうろついていた」と。へんなやつだ。
バスには乗らず、まずは評判のラーメン屋(『菜良』)に立ち寄ってスタミナ補給をしてから記念館へ、というコースでどうか? と訊くと、それでいいと言う。
歩くこと5分。『彩良』はかなり凝った豚骨醤油系のラーメンで、こってりしているのに繊細な旨味を感じられる。太麺は明らかに自家製で、具がたくさん入っている。茅ヶ崎のラーメン力は恐るべし、5つ星の名店だべ。
店を出てから、iPhoneのマップを頼りに右に行ったり左に折れたりしながら、30分歩いて記念館の到着した。肌寒さはあったが、雨は降らず。
彼は開高健を神様扱いしているが、私はいいかげんな読者の一人でしかない。大学時代に『日本三文オペラ』を読み、『オーパ』や『もっと遠くへ』といったルポを愉しんだくらいで、唯一、入館資格があるとするなら、遺作というか絶筆になってしまった『珠玉』だけは襟を正して拝読した。学生時代の畏友が「『珠玉』だけは読んでおいたほうがいい!」と進言したからだ。が、お勉強としての読書というのは存外記憶に残らないもので、いまや内容は99パーセント忘れてしまい、新橋だか銀座だかのバーの年取ったママが見苦しいってシーンがあった、くらいしか覚えていない。
明日、世界が滅びるとしても
今日、あなたはリンゴの木を植える。
記念館は開高健が1974年から89年に亡くなるまで住まわれた邸宅を改装して茅ヶ崎市が運営する個人文学館だ。
15分くらいのインタビュービデオを知人と見た。
決してハンサムだとは言えない顔立ちだが、美男におわす、と思えた。その理由は、生きること(冒険と遊び)に対して意欲的な人間が持つ若さやしなやかさが表情に垣間見られたからだ。40歳50歳になっても、少年のよう、少女のようと形容されるかたがいらっしゃるが、自分の生を純粋に愉しんでいる稀有な人間なんだろう、と思う。
開高健に対する勉強不足の私だが、一枚の写真の前でうずくまって見入ってしまった。それは開高健自らが撮影したアウシュビッツの写真で、目を凝らして見ると、無数の骨片だった。撮影時期は1960年で、当時、収容所跡の敷地にはまだ骨が散乱しているような状態だったらしい。
3分くらい、しげしげと見てしまった。
次に、展示されている生の執筆原稿もしげしげと見た。真面目に読んでしまってつい音読しそうになった。編集者の赤ペンによる促音便や改行指定が原稿に書き込まれていて、自分も同じことをずっとやっていたので、親近感が湧いた。
面白半分で記念館に来たわけだけど、来てよかったと心底、思った。
帰りはバスに乗って茅ヶ崎駅へ。駅前のカフェで長すぎるくらいに話し込んで、別れた。
この日記を書く前、夕刊を開いたら、今日は映画の日だ。
ユダヤ人歴史学者とホロコースト否定論者の対立を映画化した『否定と肯定』が取り上げられていた。事実をねじ曲げようとする歴史修正主義者はどこの国にもいる。
社会面にはカズオ・イシグロのノーベル文学賞記念講演記事が載っていて、救われる思いがした。
「私はいまだに文学は重要であると信じている。分裂の危機が増加している時代に、私たちは耳を傾ける必要がある。良い作品と良い読書は障壁を打ち破ります」
自分は半分死せるようなペシミストだけど、開高健やホロコーストの映画制作者やカズオ・イシグロや質の高い読書人や人間に対する信頼と尊敬を抱くヒューマニストがいるかぎり、世界は破滅しないと思う。
少し希望が湧いた。今日はそんな日になった。
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