フォルムの実際 ルーベンス編 エピローグ
どんなジャンルでもそうだが、まず基礎があり、基礎を元に発展させ、独自のスタイルを確立していく。この順序立てた成長過程が、印象派以降の西洋絵画では軽視される傾向があった。西洋絵画の教育システムそのものが壊れてしまったのだ。それまでの西洋絵画の多くは、支配者である王侯や権力を持っていた教会の求めに応じて絵画が制作されており、市民革命と同時に、このような古典絵画の存在意義そのものが批判の対象となっていったためだった。自分達を支配していた王族達を尊大気に描いた肖像画は市民達にとってみれは憎しみの対象ともなったのだろう。支配の傷跡がまだ生々しい時代に極端に走るのは良くある事だ。市民革命がその後の人類の近代世界を作り上げていく訳で、この市民主体の価値観は今でも変わらない。古典絵画には、問題があった事は事実として認め、だから否定すると言うスタンスではなく、もっと冷静に作品として歴史的に再評価しようと言うのが現代の流れだ。ヨーロッパでは、日本では否定されたと思われている古典絵画も美術館で大切に保存されている。歴史は必ずしも都合の良いものばかりではないが、それを自分達の受け入れやすいように変えてしまうのは本来のあり方ではない。アジアでは、歴史を政治的に利用しようと言う傾向もあり、それが新たな対立の火種ともなってしまっている。未成熟と言ってしまえばそれまでで、何とか理性的に対応できるように知恵を絞っていくしかないだろう。ヨーロッパがユーロとなり、ヨーロッパ内での戦争の可能性が薄らいでいった。過去の歴史に対して必要以上に感情的な対応をしなくなったのも平和になったがためだろう。それでも、周辺国とのトラブルはいまだに起きている。それも人類の知恵で最低限の紛争に停める努力が続けられている。局地的な紛争はなくならないだろうが、全面的な戦争に発展する可能性は少なくなっている。これも、人類の進歩になるのだろう。日本としては、好戦的ではない事を強調する事で、先進国としての義務を果たす事ができるだろう。
ルーベンスは、自分の国であるネーデルラントの内戦を心から憂いていた1人でもあり、内戦の停戦によってネーデルラントに住み続ける事もできた。北部ネーデルラントは支配国であるスペインからの独立を望み、南部ネーデルラントはスペインの支配を受け入れる事で平和を担保した。このような真逆の判断をしたのは宗教的な違いによる。北部はプロテスタントであり、南部はカソリック。スペインはカソリックの国だったために、南部と相性が良く、北部とは敵対する事になった。北部ネーデルラントは独立してオランダとなる。日本ではオランダと言う名で呼ばれるが実際はネーデルラントだ。平和を望んでいたルーベンスは、平和維持のために外交官として尽力していたと言われている。ルーベンスは、若き頃に絵画留学していたイタリアに終生憧れ続けていたが、その後、一度もイタリア訪問が実現していない。宗主国であるスペインへ行ったおり、若きベラスケスと会い意気投合、一緒にイタリアを旅行しようと計画していた。しかし、それも適わなかった。20歳前のルーベンスの師匠の1人は風景画家で、若い頃に風景画を教わっていた時期があった。宗教画や神話画、肖像画を描く事が多かったルーベンスだが、晩年はネーデルラントの風景も描くようになり、風景のスケッチも残っている。ルーベンスの風景画は、人物画程には飛び抜けたものではないが、ネーデルラントの自然に惹かれていたのだろう。希代の天才と言われるルーベンスだが、自然を見つめるルーベンスの目は、やはり普通の人間として、そこに生きていたのだと実感させられる。
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