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2021年12月18日10:25

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絵の才能って

絵に才能ってあるのかな?
 人というよりは、動物には、本能があって、鳥は空を飛べるし、馬は速く走れる。遺伝子によって、この能力はほぼ決まっていて、努力でどうにかなるものでもない。だが、動物と人との決定的な違いは、人は、本能に抗う、ということではないだろうか。本来空を飛べる能力の無い人が、空を飛べるようになる訳で、これこそが、人の人たらしめている何か、だろう。本能は、生きることに直結していて、遺伝子の中に組み込まれている能力だ。絵を描くことは、生きることと関係がないため、遺伝子には組み込まれていない。つまり、遺伝しない。絵を描く才能と言えるかどうかは分からないが、偶然、絵を描くのに適した能力を持って生まれる人もいるだろう。だが、その出現は、ランダムで、その能力が誰に備わるかは分からない。昔から、絵や芸事の場合、師匠に弟子入りするシステムになっていた。親子の関係というよりは、師と弟子の関係が重要だ。これも、絵や芸事の能力は、遺伝とは必ずしもリンクしないからだろう。そのため、努力によって能力が開花する可能性が非常に高い。才能がある、と言っても、圧倒的なアドバンテージがある訳ではないので、努力によって、ひっくり返される可能性は高いのだ。とにかく地道な努力を続けた者の勝ちだ。その努力だが、この頃、本当に重要だと思うのが、他の芸事や、作品と接すること。見るだけでもいいと思う。音楽を聞く、演劇や映画を鑑賞する、芸能を楽しむ。スポーツでもいいし、漫画やアニメでもいいと思う。自分が、サブカルチャーとかハイカルチャーとかの文化的階級思考を否定するのは、ここだ。感性を豊かにするには、区別なく、いろんなものに触れた方がいいのだ。これは素晴らしい芸術だから、これは、低級なものだからと、区別して、接触を制限していると、感性が歪になって、伸びる能力も伸びなくなってしまうのだ。初めて見るものであっても、素晴らしいものは、素晴らしい、と感じる感性が大切。知識によって区別するようだと、大切なものを見逃してしまう。ある和太鼓のコンクールがあって、そこに、長髪の奏者がエントリーしてきた。審査員の1人は、彼の和太鼓の演奏ではなく、長髪に反応して、低い評価を下した。長髪が気に食わなかったようだ。だが、その彼は、耳に障害があり、それを隠すために髪の毛を長くしていたのが後に分かる。その審査員は、それを知って、その奏者に泣きながら詫びていたが、見た目や知識だけで判断すると、とんでもない間違いをしてしまうことがある。この審査員は罪深いことをしてしまった。逆に、能力以上に高く評価され過ぎて、自分の実際の能力とのギャップで、壊れてしまう者もいる。R-1で優勝した芸人が、芸人を辞めたい、と言い出すのは、不幸ではなるが、コンクールにあまりにも依存し過ぎると、その後の成長に支障が出る場合もある。オードリーや千鳥は、M-1で優勝はできなかったが、今大活躍している。絵に話を戻すと、絵の公募展は、どこそこの美術大学を出ていないと出品できない、なんて条件は皆無。誰でも応募できる。審査すらない公募展もあるぐらいだ。審査も、その時の作品が全て、過去の作品も問われない。逆に言うと、未来も問われない。可能性を評価されることもない。それは、これから、その人の描く絵がどうなるかなんて誰にも分からからだ。絵の成長は、後天的な努力や環境によって大きく変わる。環境と言うのは、経験だ。金持ちだから、とか、そう言う意味ではない。展覧会を熱心に見に行くのも大いに役に立つだろう。藝大の受験も同じ、その時の入試では、優れた作品を製作した。これは事実だろうが、だが、未来の可能性を高く評価された訳ではないことは知るべきだろう。4年間の学生生活で、最高の作品は、入試の時に描いた作品、なんてこともあり得るのだ。
 才能は、当てにならない、才能なんて、あろうがなかろうが、本人が、努力しないとどうにもなりはしないのだ。絵は、そういう世界だ。
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