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2021年07月09日10:23

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どうして印象派は、いい加減に扱われるのだろうか

どうして印象派は、いい加減に扱われるのだろうか
 印象派は、若手の画家達が集まったグループで、後に評論家が分類したような曖昧なものではなかった。グループ展も開催されていて、その時に、まるで印象を描いたような絵画だ、という鑑賞者の言葉から、印象派、という名前が生まれたと言われている。実際、そうだったようで、最初のグループの名前は、かなりダサいものだったよう。印象派という言葉は、印象派の画家達も気に入って、その後、自分達で使うようになる。印象派の中心的なメンバーは、ドガで、ドガ派と言われる仲間が集まっていた。ドガと考え方が対立していたのがセザンヌで、このドガとセザンヌの対立は、結局解消されず、セザンヌが印象派を去る原因になった。セザンヌをかばったのが、友人だったモネとルノアールで、この3人は仲が良かったのだ。セザンヌは、パリを去るが、3人の付き合いは、その後も続いていた。モネとルノアールが親友だった、というのは、あまり知られていない事実かもしれないが、ルノアールも、モネと一緒に風景画を良く描いていた。学生の頃からの付き合いだ。印象派グループは、パリにある美術学校への入学を目指して、受験のためにパリにやって来て、予備校のようなところで知り合った若い画学生達が中心だった。マネが印象派に入れられることも多いが、マネが印象派だった事実はない。マネは、サロンの画家で、画家として成功するには、サロンに出品するべきだ、という考え方でもあった。印象派の画家達、特に、ドガは、サロン否定派の尖兵で、印象派の画家は、サロンに出品するべきではない、という考え方。ドガ派の画家達も同じだった。マネとドガでは、全く考え方が違う。ドガとセザンヌの対立も、サロンに関する考え方の違いが生んだものだった。セザンヌは、古典絵画の信奉者で、こよなく古典を愛していた。サロンにも肯定的で、自身、サロンへの入選を若い頃の目標としていたぐらいだ。セザンヌは、印象派に加わった後も、サロンへ出品し続け、落選し続けていた。この行為をドガは批判し、名指しこそしなかったが、サロン出品に関して、セザンヌを批判するようになる。セザンヌは、古典絵画への造詣も深く、古典とセザンヌの作品との間に乖離はない。古典作品とセザンヌの作品は、地続きだったのだ。ただ、当時は、印象派の画家の多くがセザンヌを理解できなかっただろうことは想像できる。モネの考え方としても、サロンを否定することもなく、何度か出品し、入選も果たしていた。しかし、サロンへの執着はなかった模様。ルノアールもサロン否定派で、その点は、ドガと同じだったが、モネやセザンヌの友人でもあったので、モネと一緒にセザンヌをかばう側に付く。ドガ派とセザンヌ派の対立で印象派に亀裂ができ、印象派が消滅する原因の一つになったと言われている。サロン絡みでの考え方の違いだ。マネは、印象派の画家達とは、一緒に活動せず、独自の絵画を追求していく。誤解されやすいのは、モネとマネの関係だろう。モネは、マネに公私に渡ってお世話になっていた。絵画的な面だけではなく、生活費の工面から、家の面倒まで、マネは、モネをサポートしている。一緒に写生をすることもあって、二人は仲が良かったので、マネを印象派に加える人もいるが、これは、間違いだ。マネが印象派に加わった事実はない。年齢的にも離れているので、兄貴的な存在だった、ということだろう。モネは、割と人当たりが良く、あまり対立を好まなかったので、サロン系の画家に対しても、あからさまに批判することもなかったようだ。これは、モネの人格、性格によるものだろう。セザンヌの作品も高く評価していて、セザンヌが、なかなか売れないことに腐心し、知り合いの画商などにセザンヌを売り込むこともあったそうだ。後年は、恩義のあるマネの作品を美術館に収蔵するように働きかけていたりする。モネは、作品の素晴らしさ、だけではなく、人格的にも、素晴らしい画家だったと思っている。それだけに、印象派の画家については、冷静に、客観的に、事実を精査するように研究して欲しいと願う。イメージや、ご都合主義で印象派を扱って欲しくない。
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