昨日は隣町の大型スーパーにバイクで行く。6月からかれこれ5カ月近く、胚芽米を食べているのだが、手巻き寿司や炊き込みご飯の場合は白米にしている。
テレビのスポットCMで1カ月近く前から、新潟や宮城など各地のお米のコマーシャルが流れ出した。そして先週、ようやく北海道米のCMを見た。いま、わが家の白米が切れたので、「ゆめぴりか」か「ななつぼし」の新米を買いたい。
が、スーパーの米コーナーにあった北海道米はまだ令和元年産しかなく、他の地域の新米ならたくさん揃っていた。ちょっと落胆したが、新潟の新米コシヒカリを買う。一般的にはこちらのほうが美味しいイメージもあることだし。
こういう買物(とラズリの散歩)は今の私にとって息抜き代わり。あとは出来るだけ詩人の遺稿を翻刻することに気持ちを傾け、飽きてきたら本を読むという、まるで学者のような生活になってしまった。
矛盾するようだが、昨日の夜23時半から、サッカー日本代表の対コートジボワール戦をテレビで観た。あと1時間、早く始めてくれないかと思う。
前半が終わったら午前零時40分。両チームとも得点は入らず。後半開始が零時55分で、もう限界かと感じつつ、最後まで観てみたら、ロスタイムになって日本のゴールが決まって、1対0で勝利。足の長さも身体の厚みも二回りくらい大きなアフリカの選手相手に果敢に挑む姿を見ていると、25年前までは大人と子供の差があった日本人選手がよくここまで成長したものだと感心しきり。今回の日本代表は時差と新型コロナの要因から全員がヨーロッパのリーグ所属なのである。現在、海外チーム所属の選手は30名、いやアジアなどを含めると40名くらいいるのか。
野球やバレーボールと較べて、サッカーは意志疎通が出来ないと選手としては機能しない。まずはチームの戦術ありきで、次に個人技という順だ。たとえばベルギーのリーグで先発メンバーに入ろうと思ったら、英語とフランス語とドイツ語のうち少なくとも2カ国語はヒヤリング出来ないと話にならない。それに加えて、練習でも試合でも190センチ85キロクラスの選手とぶつかって倒れない体力を求められるのだから、彼らは「超人」だと思っている。(差別的見方になってしまうが)、コートジボワールの体格がいい選手がもし私の足に軽くタックルでも仕掛けたらシャレにならず、両足が複雑骨折になること間違いなし。
今、自分には重い小説を読んでいる。桐野夏生の『夜の谷を行く』。連合赤軍の山岳基地で永田洋子、森恒夫の下、「総括」名目でのリンチ殺人(12名+α)を幇助した女性の服役後の今を描いた小説で、主人公の西田啓子はフィクション設定であるものの、実在している人物を何人か取材して作ったものと思われる。
この事件が明らかになった時、私は高校2年だった。
当時の私は、暴力革命や政治テロについて、文学としてのロマンを多少なりとも抱いていたこともあったので、この事件に対して複雑な受け止め方になった。凶悪極まる事件であることは認めるものの、派出所を襲撃して拳銃を奪うような革命戦士に対する憧憬に近い感情はそれでもあった。一般常識とは180度、いや130度くらい違っていたのだが、私のようなサヨク的な高校生、大学生は何パーセントか確実にいたはずだ。
結局、それから2年が経って、自身、思いも寄らぬ大学に入学することになる。連合赤軍の母体を生んだような大学に。既に連合赤軍なんて学内にも日本にも存在していなかったが。
そんな裏事情もあって、主人公の女性をつい自己同一化してしまう。他人事とは思えないのだ。
350頁くらいの小説は3日掛けるようになってきたが、『夜の谷〜』は読破するまでに5日かかりそう。
今日も翻刻をやっているうち、一日が終わった。
30分ほどスマホを使い続けると、ボディが熱くなる。それと同じで、目を凝らしてディスプレイに映っている画像を見ては、一字一字キーを叩くということをやっていると、頭の中がオーバーヒートする。
相談相手が欲しいな、と思うのだが、こんなことにつき合ってくれる人など到底いないし、教養が私よりある複数の編集者に画像添付のメールを出しても解答付きの返信をもらったことはない。
いっそうのこと、お金ではなく知恵のクラウドファンディングを募集しようか、などと想ってはみるものの、応募してくれる人など皆無であろう(苦笑)。
此日午後、宿沢稔及平野長英ニ書ス。
十二日、少�勝�秋ノ気配有リ。若尾賢ヨリ書信有リ。後、賢ニ書ス。僧山日歴ヲ圖面シ書ス。秋ノ山を圖ス。夜、妻、余ガ文ヲ冩シクレル、十一時半臥ス。
十三日、�哨譟I浩鄂声劼虜彁�也。
一日中人々ヘノ書信ヲ整理シ送ル。曰、燧之國平野長英、甲斐之國樋口其治、若尾賢、宿沢稔、村上芳雄。杉並区田部重治、若尾茂、常陸ノ国眞壁農業校長、稲葉□午郎(?)。夕方小雨ノ中ニ送リ終ル。
雲暗ク月隠ル。夜、空�哨襦7逎鮓�ル。夜中、薩摩……………(墨で消している)………
十四日、曇。雨大イニ至ル。米のコハニテ午後、鷗外の「空車」ニ付イテ書文ス。
最後の行に鷗外の小説らしき題名がある(と見当をつける)。
3分くらい見つめていると、二字目「車」かなと思えてくる。で、ネットで鷗外と車で検索を掛け、長々とスクロールしていくうちに「空車」であることが分かる。青空文庫に「空車」があるのでつい読んでしまう。
最初の行、途中の行に、固有名詞がいっぱい出てくる。他の頁で書かれた同じであろうと想われる固有名詞と見比べつつ、だんだんと漢字が判明し、確定に至る。
こういうことを延々とやっていると、文字どおり浮世離れになっていく。
ガースとかトランプとか、政府の小役人とか忖度で自己保身をやっている人とか、声を頭のてっぺんから出すお笑い芸人とか、こういう人らを支持する国民とか、ゴミの分別ができない人とかが馬鹿に見えて仕方なくなる、という弊害も生じてくる。
こういう悪い精神状態こそリフレッシュさせるべく、GO TOなんとかを利用して旅に出ればいいのだけど、旅行を安くあげるためにこういう手段を用いるというのは本来の旅の趣旨から大きく外れている。旅というのは非日常なのに、そこにある意味詭弁のような合理を活用するというのはただの日常じゃないか、などと思ってしまう。
一泊3万円の宿を35パーセント引きで泊まる。それなら身の丈に合った1万円ちょっとの宿を利用して、つましく旅をすればいいじゃないか。地域クーポン券で経済範囲を狭めてしまうより、安くて美味しそうな大衆食堂を自分の足で探し回ればいいじゃないか。で、入って食べてみたら、想定外の不味さだったとなっても、それは一生、記憶に残るという意味でいい体験になる。
……というようなことを考えてしまうと、GO TOの話題がニュースに出るたび、やっぱり「馬鹿だなあ」と上から目線になってしまう私であった。
ログインしてコメントを確認・投稿する