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2017年03月31日21:07

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はじまりへの旅

 あまり意識に昇らないが、年ふるごとに冬と雨が好きになっているような気がする。
 昨日までの暖かさが一転、今日は寒い一日となった。正午を過ぎたあたりで雨が降り始めた。いま20時でも雨は降り続いている。カーテンを閉めていても、さまざまな雨音が聞こえる。物置小屋の屋根に雨が落ちる音もあれば、木々の葉に留まった雨水がまとまって庭のタイルを叩く音もするし、雨が壁を伝って流れる柔らかな水の流れも微かに感じられる。どんなふうな雨の状態なのかは、ほぼ想像がつく。腐葉土を漉き込んだ土が水を吸ってどれくらい黒色に近づいたのかもわかる。雨粒がたてる音を符に写したら、自己表現が過ぎる現代アートなんかよりもよほど美しい抽象画になるように思う。
 冬と雨。この2つの自然にはどことなく引きこもり感がある。孤が立っている。
 こんなことをつらつらと考えたのは、先ほど読んだ朝日夕刊に載っていた映画評がきっかけだった。それはヒッピーコミューンを営む家族の物語『はじまりへの旅』という映画なのだが、添加物不使用の食材や天然由来の生活用品にこだわり、自給自足をよしとする一家の「社会から隔絶した生活」「孤立した種族のようなありかた」を描いた作品らしい。世間と関係を断ったからと言って、無教養な暮らしではない。父は文化的英知を尊び、子どもたちは読書にいそしんで物理や哲学や語学を日々自主的に学び、「まさに美しい純粋な知性だ」と映画評論家は書いている。そのあとに続けて「だが清らかなだけで、人間に揉まれず濁った現実を知らないのは、正しいのだろうか?」と疑問を呈していた。
 これはまさに真正の文学的テーマで、当然のことながら正解はない。正しいとか間違っているという二択はただの社会的な基準でしかなく、そもそも社会から逃れた彼岸に於いては考察の視点自体が間違いである。
 というのも、私は中学校に入ったころから、社会と自分の間にはっきりとした線を引いてみようとする意識が強かった。添加物まみれの食べ物をいっぱい食べていて、欲望まみれの精神ではあったが。
 しかし、表面上は社会と同化するふりをしていたし、社会が(今ほどは)嫌いでもなかった。好きこのんで問題児になろうなどとは思わず、よく学びよく遊びを絵に描いたような少年だった。が、これは社会学用語で言うところの「役割演技」で、親やクラスメートや教師を欺いたニセの自分でもあった。社会から隔絶した一生なんて送ることができないだろう、と諦めてはいたが、もし隔絶が少しでも可能であればと夢想することが時々あって、まだ高校にも行っていないくせに、(大学の)研究者なら社会と関わりなく生きていけるかもと逃避していた。幾人かの偉人の伝記を読んでいて、そんな将来像を思い描いたのだろう。父がどっぷりと会社(社会)に浸かったサラリーマンであることを、否定していた気持ちも一因だ。
 きれいごとだけでは人間生きていけない。わかりきっていることだ。しかし、あまりに常識的なことだからこそ、疑ってみたい。でないと、私は自分を失ってしまいそうだ。ここまでなんとか正気で来られたのは、自尊心、つまりなんとか自分自身を失わなかったから。
 年々、雨が好きになる。自分が葉っぱの上の雨粒である、という比喩があながち悪くない妄想だとも思う。朝が来て太陽が照ったら雨粒は天に昇って消える。これも悪くない。

追記みたいな註
 今週27日月曜日、某所で千利休の茶室を再現した庵を見たことが、この日記を書く土台になっている。わずか2畳の陋屋を見て、自分ちがこんな家だと面白いな、としばしの間シミュレーションをしていた。
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