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2026年09月09日20:21

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正気と狂気の狭間

 9月9日、曇時々晴れ、一時的に霧雨。
 昨夜未明、篠突く雨が降り始める。山が崩れませんように、と祈りながらクスリを一粒。12時40分あたりで深い眠りに落ちた。
 今朝は曇天。お米を買いがてらクルマで隣町の大型スーパーへ。例によってブックオフで古本を漁り、クルマをそのままに10分ほど歩いてスーパー。最初に千葉県産の新米が目に付いたけれど、令和7年産の「ななつぼし」を購入する。新米のほうが安かった。この次は東北か北海道でとれた新米を買うだろう。
 5キロの米を持って歩くと、結構な重さだ。このような荷物運びもそのうち苦になって宅配に頼むのだろう。現代の都市生活者は6千人の奴隷を抱えた生活だ、と試算されている。俺はときどき「生まれてすみません」(太宰治「二十世紀旗手」)という罪深さを感じているものだから、こういうナイーブな問題に接するとつらくなる。
 今日の日記は珍しくまずタイトルを書いてから書き始めた。
「note」にあったある方の日記に「人間は発狂しないために動き続けている 」というタイトルがあって、中身は自分とリンクしなかったものの、私はいまもって自分が正気でいるのか狂っているのか、よくわからないところがある。前述したような人間としての原罪を背負う存在であるという発想は、文学的に過ぎるようで、九分九厘の人間は知ったこっちゃない人生觀である。ということは、簡単に言うと「私はおかしなひと」である。
 ブックオフで宇佐美まことの小説を見つけると購入するのだが、その理由は舞台が四国であることが多いのと、登場人物がどこかフツーじゃないキャラだからだ。私が四国(高松)にいたのは6年間で、そもそも高知県と愛媛県には行ったことさえない。だが、四国の中でたまに見え隠れする土着的な民俗や風景が忘れられないのだ。平家の落ち武者と遭遇したとか、この世とあの世の境で彷徨っているようなお遍路さんと会話を交わしたなんてことはないにもかかわらず、日常の軸がわずかばかりずれている不可思議さを垣間見てたような気がする。これも自分の頭がちょっと狂っているからだ、と説明づけられるのだが、文学作品のなかにはこの「狂気」を取り入れて社会の闇、人間の闇を描こうとするものが結構ある。著者の洞察力が優れている場合、狂っているのは登場人物ではなく我々が属している社会のほうである、と思わせる作品に昇華させている。
 これと質はまったく異なるのだが、一昨日から読んでいる「破滅派」と名乗る著者の作品では、自らを破滅に導くことこそが自分にとっての生である、という信念が描かれている。こちらも私にはわかりやすくて、自分は中学生の頃から上昇志向と転落志向の狭間でもがいていただけに、他人事とは到底思えない。そして今、自分と真っ直ぐ向きあってみると、この両面の狭間をブラウン運動のしているかのように、スカッシュの球のごとく、ターンしながら生きてきた、と感じてしまう。正気と狂気、などと書くと大袈裟かもしれないけれど、正反対のベクトルに突き動かされてきたのだった。
 私は半ば狂っている。
 このように自身を定義している間は正気を保っている、と言えそうだ。
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