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2026年08月28日13:52

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閑人のルーティンとか死生観とか

 昔から日々のルーティンを、いやいやながら黙々とこなすことに心を砕いていた。小学6年生の影、中学3年生の影は古希となった今、それぞれ145センチ165センチの影はプロポーションそのままに少しだけ拡大したけれど、もし75歳まで生きられるとしたら165センチの影に、万が一90歳まで生きていたら145センチに縮むのだろう。
 今週も平穏に日々が流れていった。
 月曜日、通販でも買えるのだが、珈琲豆を買いがてら電車に乗って横浜駅へ。帰りにブックオフの旗艦店と有隣堂に寄る。大学時代も今も、珈琲豆とパンと本くらいしか買い物はしなかったので、街の歩き方がパターン化している。
 家の内外でも、気分がダレると掃除、気がふさぐと庭に出て雑草を抜いたり苗の様子を見たり、トマトの枝ガ垂れていると山に行ってYの字の枯れ枝を拾ってきて支え棒にしたり、お寺の森深くにひっそりと延びているサツキやヤマブキの枝を取ってきて枝挿しをしたりして、倦んだ人生にお茶を濁すようなふるまいをしている。1年先の未来を据えて動くことはあっても、3年先といった中期の展望が徐々に持てなくなっている。
 今週、石川文洋さんの訃報を知った。戦場カメラマンとしての業績を高く評価されているかただが、私にあっては、65歳の時と80歳の時に北海道から九州まで徒歩で旅をされた行動派詩人、というイメージが大きい。岩波新書で出た石川さんの旅日記を読んだ際、自身の老人観が少し動いた。良きにつけ悪しきにつけ可能性というやつは無限である、と。
 岸恵子さんも今夏、亡くなった。
 同じ時期、岡本公三も亡くなっている。
 自分は年上好みゆえ、2回りも年齢が上なのに岸恵子さんをひとりの(理想的な)女性として見ていたような気がする。
 高校2年の春、テルアビブ空港で銃乱射テロが起きた。実行犯3人の過激派学生のうち、生き残ったのが岡本公三で、日本中がこのテロを非難し、岡本の死刑を願った。が、自分は変人だったのだろう。岡本たち実行犯に共感めいた思いを抱いた。彼ら赤軍派はPFLP、パレスチナ解放戦線に対して私が赤軍派に憧憬したような連帯意識があって、イスラエルをやっちゃえやっちゃえ、どんな手段であってもやっちゃえやっちゃえ、という自己陶酔的な闘争を仕掛けたのである。今、ネタニエフ(やプーチンやトランプ)なんてとっとと暗殺されたらいいのに、などと思っている国民は割といることろう。岡本たちは時代を先取りにしていた、と言える。
 訃報をあげていけばキリがない。自分の頭のなかに浮かぶ亡くなられたかたの面影をしのべばいいだけのことで、わざわざ書くようなことでもあるまい。
 そんなことより、スイカだ(笑)。
 25日火曜日、三浦スイカを丸のまま買った。といっても、図書館の帰りゆえ、ぎりぎりリュックに入る小玉すいかで、「ひとりじめ」というユニークなネーミングだった。
 で、食べてみたら、甘みが強い、ジューシーである、皮がほぼない、という3点の特徴があって、食べている間、来年、すいかを栽培してみたい、とさえ思った。
 翌日の晩、「ひとりじめ」を食べ終わった。お皿に残った種をバケツに入れてきれいに洗って干してみた。昨日、その種が一定乾燥したところで、小袋に詰めて冷蔵庫に保管した。この種で小玉すいかが育つかどうかはわからないが、やってみる価値がありそう。
 今年は6月に鎌倉農協の市場で1鉢の苗を買ってミニトマトの栽培をやってみたのだが、7月から今日まで一日平均5粒くらいの収獲があって、この先1カ月くらいは食べられそうだ。実がいっぱい付いた枝はたわんで地面についてしまうので、今朝は山からYの字状の枝を拾ってきて、支え棒をしてみた。こういうちまちまとした作業は、自分のようなウツ病気質に効果があるらしく、多少なりとも充実感が生まれる。ちなみに、トマトの木は現在3本あって、2本は再生栽培(脇芽を苗に育てた)だからゼロ円トマトと言える。
 再生栽培はだんだんと趣味化している。いま、庭には毎年枝挿しで増やしている紫陽花苗のポットがあり、サツキとツツジ、ヤマブキを挿し木で育てている。ちゃんと一人前に育ったら山に移植して、植生を整えたい。
 一昨日、ブックオフで講談社学術文庫『「満洲国」見聞記〜リットン調査団同行記』を買い、昨夕、読み始めた。240ページの半分まで読んだので、今日読み終えることだろう。
 リットン調査団は日本史の教科書に載っていた。1932年、国際連盟が前年の柳条湖事件が起きて日中戦争の危険を鑑み、リットン卿を団長として調査団を送った、というのが簡単な概略で、このあたりまでは大学入試でよく出題されるものだ。で、日本はリットン調査団の報告を不服として、国際連盟を脱退した、という流れを知っていれば一応は合格なのだが、いったい調査団は柳条湖事件や日本政府による「満洲国」建国をどう見たのか、ということが肝であって、「1932年リットン調査団」という年表を覚えたところで何も学んではいない。しかし、日本史という授業は大和朝廷から第二次世界大戦の敗戦まで、頭をほとんど使わない暗記科目で、歴史的な内容なんてどうでもいいのだ。ご多分に漏れず私は、リットン調査団が日中をどう捉えていたか、まったく知らない。
 見聞記の著者ハインンリッヒ・シュネーはドイツ人で、120ページ段階では、報告書には一行も触れてなくて、日本に着いて誰と会食をし、誰にヒヤリングをしたか、中国に渡って誰の話を聞き、どんな印象を抱いたか、ということを簡潔に記している。
 日本では天皇裕仁に会い、犬養毅首相と会談し、陸軍大臣海軍大臣と話をし、天皇御一家と一緒に御用邸で鴨猟をしたり、政財界のお偉方と夜ごと懇親会をしたり、京都と奈良へ観光に行ったり、大阪で朝日新聞と毎日新聞を表敬訪問したりして、神戸港から上海行きの船に乗船、といった日々の記録が簡潔に書かれている。親日家のドイツ人が1932年のニッポンをルポ、という内容でもある。
 中国でも同様、調査団は精力的に国家の有力者と会って話をし、各種パーティーに出席している。
 調査団は、英国人のリットン卿のほか、このドイツ人、フランス人、イタリア人、アメリカ人各一名ずつ。割と公平、というか、当時の世界情勢からすると、ドイツとイタリアとイギリスは日本贔屓だったから、やや日本側に有利とも言える。
 が、調査団が日本と中国にいる間に、愛国ウヨクによるテロが頻発し、犬養毅も暗殺された。当時、愛国主義でなければ日本人であらず、という風潮が高まって、民権主義を唱えたり戦争回避に向いた思想の政治家は次から次へと排斥されたり殺されたりしていた。リットン調査団の報告書を読むまでもなく、世界の平和安定をよしとする国際連盟からすれば、いまのアメリカやイスラエル、日本と同様、最低最悪の国家である。
 ブックオフで偶然見つけた242円の学術文庫(笑)。
 京都御所より二条城が好みだ、奈良の街中でシカと会ってびっくりした、六甲山ホテルでランチをした……。
 著者は国連の調査員にしておくのがもったいないほどの名文家で、しかも日本に対して深い敬意を覚えている。
 こういう人をのちに裏切って戦争をおっぱじめたのだから、国粋主義者が実権を握っていく戦前の体制は愚かということに尽きる。
 これ、いまふたたび巧妙な段取りで繰り返そうとしている。
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