クラシックアートとモダンアート デュシャンの企み 漫画は、
現代アートとは何なのか?という問いは、なかなかの難問だ。日本でも、現代アートがあることは周知されているが、それが、何を意味するのか知らない人も多いかと思う。現代アートは、19世紀の西洋絵画の革命の延長では?と、思っている人も多いかと思うが、実は、それは、正しくもあり間違ってもいる。19世紀以降の西洋絵画の進展は、一度行き詰まっている。その原因は、政治の介入だ。アートに政治が介入して、価値観を政治的に都合の良いように作り変え、それを普及させようとして失敗した。現在のEV普及と同じだ。政治主導でのEV普及は、失敗。政府が動けば国民も動くと思い込んでいる人もいるが、人間社会は、そう簡単ではない。苦しみを強いられた国民は政府を恨むようになり敵意を向け始める。人間の心をコントロールするなんて、そう簡単にできるものではない。アートへの政治的介入は失敗し、フラットに戻っていく、そこで、台頭してきたのが現代アートだ。面白かったのが、同時に、クラシックアートの復権も行われていったことだ。クラシックアートの再評価も進んだ。これは、健全なアートの進化で、音楽で言えば、クラシックがあり、ジャズがあり、ポップスがあり、と、大衆が、好む音楽を楽しむことが大事。ジャズだけが音楽の全てだとして政府が押しつければ、国民は反発する。EVが全てだとして、政府が押し付けているのと状況は同じ。無茶なのだ。それが行き過ぎれば政府の方が破綻する。国民を軽んじてはいけない。モダンアートは、何モノをも否定しない。デュシャンの企みが、現代アートの出発点だとする人が多いかと思う。デュシャンのやったことは、価値観の破壊だった。デュシャンは、名前を変えて、自分が関わるアンデパンダン展に、捨てられていた便器を出品した。アンデパンダン展とは、基本無審査だ。基本無審査だが、問題のある作品は、拒否されることもある。常識外の作品を出品する人もいるのだ。展示しきれないような大きな作品や、危険な作品などは、さすがに拒否される。デュシャンが、別名で、出品した便器も、一応は受理はされたようだが、展示はされなかった模様。流石に、ゴミのような便器を展示する訳にはいかなかったようだ。これは、デュシャンにとっては、想定内の反応。ここで、デュシャンが噛みついた。どうして、便器を作品として認めない、アートとして認めない。一般の人には、理解しがたい行動だろうが、これが、現代アートなのだ。デュシャンは、他にも、レディメイドをアートとして主張した。レディメイドとは、大量生産品、いわゆる、吊るし、と言われる商品だ。現代アートのモチーフとして、このレディメイドを用いた作品が多い。ハンドメイドがアートと言われることがあるが、大量生産品をアートと主張することはなかった。だが、デュシャンは、レディメイドも、アートだと主張した。無能の人という漫画の中で、主人公が、河原で拾った石を、河原の横で売っていた。河原へ行けばタダで拾える石を、わざわざ、その横で売る。これが、現代アートの出発点なのだ。もちろん、河原の石も商品になり、お金になる。タダではない。勝手に採集することも禁じられていたりもする。山野草もそうで、雑草であっても勝手に採ってはいけない。それとは別に、世間では無価値と思われているモノでも、アートだと思う人がいれば、それは、アートなのだという主張だ。デュシャンは、便器を美術館に展示させることに成功した。西洋絵画の世界では、クラシックアートが軽んじられた時代があった。ブグローが西洋絵画の世界から消されたりしたのだ。モネやゴッホは、知っているが、ブグローは、知らないという人も多いかと思う。19世紀のパリでは、ブグローこそが巨匠で、モネやゴッホは、若手のペーペーだったのだ。それが、逆転したのだが、これが行き過ぎて、クラシックアートが軽んじられてしまう。デュシャンが、モナリザの複製画に、髭を描いたりと、古典絵画をおちょくる様な作品を発表したりもしている。デュシャンにしても、クラシックアートの復権までは考えていなかったのだろうか。現代アートでは、具象絵画の復権も起こった。いろんな価値観をアートとして認めようという方向性なので、これは自然な流れだろう。漫画がアートとして見られるようになったのは、現代アートの考え方に沿ったものだろう。漫画のアート性が、注目されるようになり、美術館でも展示されるようになった。これが、美術の世界でのアートの流れだ。ありとあらゆるものが、アートとなっている。
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