朝10時過ぎ、メーラーを起ちあげると、謎めいたメールが一通届いていた。
読んでみたら「幻の男」だろうと思った。一般的にはメールの最後にシグニチャーがある。名前やメルアド、住所やケータイ番号なのの個人情報がたいていは記載されている。
読んでみた。
文末にただ一文字、「た」という暗号めいたひらがながあった。
まさかと疑って、再読した。内容から類推するに、2001年頃、会社を早期退職した先輩編集者だ。
「おまえは定年退職をしたところか?」
「棚さんは元気か?」
そんな質問があって、過日鎌倉に行ったらついおまえを思い出した、などと書いているのだが、具体的なことは私が定年年齢であることと「棚さん」の安否を問うことだけだ。
彼は優秀な頭脳であるものの風変わりな編集者で、会社を袖にするようなかっこうで早々に非・円満退社をした。2000年あたりだったか、会社が期間限定で早期優遇退職制度を打ちだしたとき、あっさり辞めた。まだ50歳代半ばでしかも編集長を降りたところだった。
彼が退職してしばらく、風の噂はたまに流れてきたが、数年経つうちにそもそも嫌われ者の性格だったことも手伝って、行方不明になった。私がいちばん親しかった、というわけでもないし、そも、彼は心底会社を嫌っているようだったので、自ら完全に縁を切っていた。
棚さん、というのは元私の上司で、彼も追われるように役員を辞め、会社を辞めた。人づきあいを9割断っている私なのに、珍しく年に1回、棚さんと会っている。そのことを「た」さんは知っているのだろうか?
メールを二読後、すぐに返信した。
私はいま、生きている。「た」さんと同様、早期退職をした。棚さんはその後もお人好しのアホぶり変わらずで、年に1回会っている。
こんな近況、というか21世紀以降の経過を綴り、読み返しさえせずにさっさと送った。
しかし、どうして超絶人間嫌いな男が、同じく人間嫌いな私に突然、連絡を寄越してきたのだろうか?
気持ちをさっさと切り替え、詩人の遺稿画像をディスプレイいっぱいに映して、解読・打ち込みに努めた。2千を超える写真を読んでいくのは……、東西1キロの砂浜にたった一個埋められたビー玉を探す、みたいな途方のなさがある。いや、これは悪い喩えだ。
好きな女の子と広々とした公園でデートをしていたら、彼女が突然、コンタクトレンズがどこかで落ちてしまったと涙目になって訴え、「落ち着こう、いつ落ちたと思う? ……そうか、ぼくが探してあげる」と慰め、落下したあたりを這いつくばって探す、というようなものだろう。安っぽい青春小説を読み過ぎか、俺。
どうしてもわからない文字は〇とし、とにかく読んで意味を掴んでキーボードを叩く。
その時とあれば私はひうちのいただきへ日参しようと思ふ
夜か明け切らないうちに山に昇つて行く
落ち葉が径をうづめてゐる
久しくのぼって遂ひにひうちの頂上に立ち
尾瀬沼を眺めるのである
そしてこのひうちの山と下に見える尾瀬沼を
自分の食べる食事のやうに大切にする
こをして
ひうちの頂に日毎立つて おちてゐる落ち葉を拾ふのである
そしてリスの目と尾にさんたんし
苺の赤い実を考うて見る
そしてその日 ひうちの山から歸つてきたならば
小屋の爐邊で又このリスと苺を思念して
リスト苺の菩薩の親せきであり、〇〇の
俊えいであるかを書きに記さなければならぬ
ひうちの山から見下せば風は尾瀬沼に起つて
水波をたててゐる
腰を下ろすと
天も廣く眺められる
そして音もしない頂に立つては休むと生涯の出来事 全く夢のやうに思ふことは
至遠の〇〇域にとぶ
さらさらと心には麦穂のやうの音がしてゐる
こんなふうに呻吟しつつ書き写しながら、詩人が尾瀬を逍遥する様子を想い浮かべる。
何年かかるか、ということを考えてはならぬ。
自分がその任にある、と考えるしかならぬ。
私はADHDに近い性格なのに、与えられる作業はマラソンランナーのような根気が要ることばっかで、職業選択を間違えたとしか言えない。そもそも研究者を早々に諦めたのは、一日中文献解釈に費やすような生活を40年に亘って続ける能力が自分には備わっていなかったからだ。
夕ごはん前、メーラーを起動したら、「た」さんからメールが入っていた。
30年以上前のアドレスでメールが送信出来て、よかったです。
神奈川県でもコロナ警戒アラートが発令されたんだとか。そう
そう、私も実は現在、神奈川県民なんです。
退職後、板橋区、滋賀県、京都府などを転々とし、3年前から
湘南地域でいちばん民度が低いことで知られるXX市に居住し
ております。
風がとりあえず元気そうで何よりです。オマケに手すさびら
しきものもあるようで結構なことでございます。
確かに私は「〇〇〇(出版社名)嫌い」なんですが、「許せる〇〇〇の人々」というのも無い訳ではありません。
それがキミです。棚さんです。
(後略)
なんか私に突然、連絡を寄越すのは変な男ばかりで(しかもたいていは落ちこぼれ)、きわめて残念だ。できれば深い関係になった女から「あなたがずっと好きだった」みたいなメールを寄越せよ。もしくは遠い親戚の財産管理人から「あなたに遺産の一部があるので至急連絡をください」というのも大歓迎だ。私が仕事用に使っているiMacが10年物になってしまったので、こんなに酷使するのなら新iMacが欲しい。
今日は「た」さん以外にも次々とメールが届いたり、他にやるべきことがあったりで、ちょっとしんどかった。夜は読書に逃げたい。
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