お知らせです(長文ですが)
江田島の北端の地区幸之浦。
ここには日本陸軍暁部隊船舶練習部第十教育隊がありました。ここでは船舶特別幹部候補生を搭乗員に、ベニヤ板で作られた特攻艇○レに250kg爆雷を搭載し、敵艦に衝突スレスレまで接近し投下する、水上特攻部隊「海上挺進戦隊」の錬成が行われ、フィリピン、沖縄、南西諸島、台湾へ配備され、フィリピンと沖縄では約1700名が戦死者を出しました。
訓練は二期に分かれて行われ、二期の後半である海上挺進第四一戦隊から四九戦隊、第五三戦隊の10個戦隊1050人(1戦隊105人)が、8月6日原爆投下を迎えました。
沖でボートを漕いでいた者、○レを整備していた者、兵舎にいた者、精神教育のため講堂にいた者、隊員それぞれ行動していた時、閃光を受け、爆音、爆風を受けました。みなさん、幸之浦に残る当時の突堤から北を見てください。何の遮蔽物も無く爆心を見ることが出来ます。
その後、第十教育隊隊長不在の中、先任士官が指揮し広島出身者を市内へ偵察に向かわせますが、惨状に市内へ入れず、状況も判らず、船舶司令部からも命令が来ない中、「広島全滅」の一報を受けました。
遅れながら、第十教育隊斉藤隊長が帰隊するも、すぐに広島市内へ引き返し、千田町広電本社の東詰の一室に救護隊斉藤本部を設置、海上挺進戦隊は戦隊別に市内へ出動し始め、また各戦隊から各10名と予備隊から50名、合計150名が似島検疫所へ応援に向かいました。
8月6日に広島市内へ入った部隊は、業火が迫る中、建物を崩し延焼を防ぐ作業と、被爆重傷者を宇品への移送を行いながら、懸命の作業を不眠不休で続けました。
8月7日までに、全ての戦隊と第十教育隊職員約2000名が広島市内へ入り、幸之浦に残っているのは主計のみ。主計は、食事を作り救護活動を行う隊員へ送り届けることが日課となりました。
その後、広島市内の隊員は死体を集め火葬し、その場に仮埋葬し判るように札を立て、また別の場所で同じ作業を繰り返すると共に、道路に散乱しているがれきを撤去し、トラックが通れるように道路の啓開作業を行いました。
検疫所の隊員はひたすら死体の火葬、土葬に明け暮れる毎日でした。
彼らは、被爆者の救護と、広島復興の礎を築きました。その作業は短い者で1週間、長い者で終戦以後も続き、広島市内へ入った救護隊全員が残留放射能により二次被爆しました。
当然です。彼らは広電本社のある千田町から広島城まで、爆心地のある中州で活動したのですから。
海上挺進第五三戦隊に至っては、原爆ドームを拠点にここに寝泊まりしながら、救護活動を行ったのです。
四四戦隊は寝るところも無いので、紙屋町交差点の真ん中にあった三角形の電停で寝たそうです。
また、作業が終わりその場に寝て、朝起きると横に死体があり、ビックリしたという体験は多くの隊員が経験しています。
その海上挺進戦隊隊員は、当時16歳、17歳の少年特攻兵でした!
広島市内に入った約2000名は、戦後原爆症で苦しみながら、重度被爆者は戦後10年までに亡くなり、ある人は家族が差別されてはいけないと被爆を隠し、ある人は原爆手帳を申請しようにも、救護活動を証明できないと、とんでもない理由で諦めた人も居ます。
そして、被爆75年を迎える今年まで、原爆救援隊の活動を広島は語らず、ほとんどの市民、いや日本人が知る事も無く、歴史の闇に葬り去られようとしています。原爆による悲劇を受けた広島が、助けてくれた人の事を消し去ろうという、とんでもない悲劇を作っているのです。
この事実は、江田島にはまったく無関係ではありません。第十教育隊と海上挺進戦隊は、江田島幸之浦に居り、ここから出発した原爆救援隊です。
彼らの事を後世に伝える義務があるのではないでしょうか?
原爆救援隊として活動した方々は、戦友会誌の中にその手記を書き残していますが、それは一般の手に渡ることは少なく、また読まれることもないでしょう。
そこで、有志が集まり「原爆救護隊の証言を残す会」を結成。その手記を1冊の本にまとめ、2月江田島市立図書館を始め、全国主要図書館へ寄贈します。
本書で、この事実を知っていただき、幸ノ浦にひっそり建つ海上挺進戦隊戦没者慰霊碑に、1人でも多く訪れていただけるとが、彼らの一番の供養になるのではないかと思います。
ログインしてコメントを確認・投稿する