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2018年09月02日16:52

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9月1日、心が痛む過去について

 9月1日は「防災の日」、関東大震災が起きた1923(大正12)年9月1日にちなんで制定された記念日だ。
 都内各所で開催される追悼式典は、新聞やテレビで報道される。
 私は横浜市郊外の久保山墓地に朝から行って、「関東大震災時朝鮮人虐殺95年 神奈川追悼会」に出ていた。

 3年前、新聞の地方版で「関東大震災における朝鮮人虐殺の事実を究明する横浜の会」の記事が載っていた。その前年だったと記憶しているのだが、横浜市の教科書副読本から関東大震災時の「朝鮮人虐殺」が削除されたというような報道があったり、虐殺否定の書籍や雑誌記事が次から次へと出て来て、国民の間には「虐殺があったかなかったかはともかく、過去の歴史を蒸し返す右にも左にもうんざり」というような気分が広がりを見せ始めていた。
 湘南版の記事の最後には、「横浜の会」が証言をまとめたということと千円で頒布されるとあったので、その日のうちに申し込んだ。
 1週間後、冊子が届いた。ざっと目を通したあとは、「誰かこのリーフレットをもっと読みやすく編集して本にしてくれないかなぁ」と思った。史料的な価値は十分過ぎるほどにある。在日韓国・朝鮮人や中国人に対するヘイトスピーチがネットでもリアル社会でも跋扈し、歴史を歪めようとする政治的な意図の本が書店の平台に増える一方なので、私は私でうんざりしていた。

養老静江(女医、養老孟司の母堂)
「大正12年9月1日私は、横浜本牧の海辺で友達が経営している小さな旅館に土曜日から滞在していました。(中略)
 時、私は生まれて初めて無残な殺人を目撃しました。十数人の男性の集団が海辺に出てきました。先頭の1人は集団から必死に逃げているのでした。追いつめられた男は遠浅の海にかけ込みました。追手は手に武器を持ってます。一番先に追いついた男は長いツルハシを振り上げると、逃げる男の脳天目がけて力いっぱい打ちおろしました。血が噴水のように飛び散ったあとは、寄ってたかってメッタ打ち、海水を真赤に染めて男は沈んでゆきました。(後略)」。

 証言集には、小学生が書いた(書かされた)作文や無名の横浜市民を含む証言が100以上も掲載されていた。
 このような証言を読んだら、フツーの日本人は以下のような感想を持つ。
1 かわいそうだ
2 私には関係ないから感想はない
3 「在日」だからしかたない
4 うそだ。養老センセのお母さんを左翼認定
5 昔の話だから蒸し返さないほうがいい
6 腸が煮えくりかえるような残虐性だ
7 このような世論形成にならぬよう、自分ができることをやっていきたい
 私の場合は「6」と「1」だった。個人的はスプラッター・ホラーが苦手で、映画でも暴力シーンが多々出そうなものは見ないし、NHKスペシャルの戦争物は見るには見るけど不快な気分が数時間続く。
 先々月の7月、思い余って代表に手紙を書いた。証言集の感想と、近いうちに本としてまとめる予定は? などと。
 9月1日が近づくと毎年意識する。朝鮮人虐殺の犠牲者は圧倒的に神奈川県が多い、ということを。東京の倍以上の朝鮮人が県内で殺された。東京での虐殺については解説本が無数に出ているし、埼玉でも生涯を掛けて虐殺の調査研究をされているかたがいらっしゃるので埼玉県を中心とした虐殺本が出ている。しかし、横浜の虐殺については「歴史」がすっぽりと抜け落ちている放置状態で、ついには教科書からも消えてしまったのである。
 しかし、手紙を書いたのに返事はなかった。
 未達か、もしくは代表者は既にご存命ではないかもしれない、と思った。3週間が経った日に、証言集の奥付にあったメールをアドレスに宛てて、メールを書いた。すぐに返信があった。お詫びとお誘いの内容だった。
 横浜の慰霊祭に向けて今、朗読会の練習に明け暮れている。ですから一度、全員が集まる練習日においで下さい、と。
 指定された8月21日の夕方、横浜YMCA会館に行った。会館の前には横浜スタジアムがあって、この夜は横浜Denaの試合開催日だったので、関内駅周辺にはベイスターズのユニフォームを着た人たちで溢れ返っていた。
 私は「どこかから本が出ないのでしょうか?」「もし出ないなら出ないで、私がなんとか本を出せるようお手伝したいほどの気持ち!」などと書いておいたのだが、朗読劇の総仕上げ練習2時間半と慰霊祭のための話し合い1時間半にただ立ち会っていただけだった。
 身を持て余して困った、と思う一方、(実に滑稽な話だが)自分が若き日の沢木耕太郎になったような気分を味わった。いや、正確に言うと、もし沢木耕太郎ならこういう局面でどう振る舞うだろうか、と考えていた。
 取材者でありながら当事者に巻き込まれて、主体的に動いてしまう、というのは、わたくしノンフィックション作家の典型的なパターンで、沢木の場合は取材対象に2年も3年もどっぷり浸かってしまうケースがたびたびある。もっとも、その主体的な取り組みがのちに大部の本に結実するわけだから、私がそもそも沢木の例を出すのは間違っているし、おこがましい。
 その日は結局、12人の練習風景をただ見守っていて、なぜだかみんなの前で自己紹介をさせられた。ひょっとしたら、私が代表に書いた手紙はその12人に伝えられていた可能性もある。何人かのメンバーが私に親しみを込めて質問をしてきたり、最後には9月1日慰霊祭の打ち上げの弁当注文を取られ、私はその時点で慰霊祭に当然のことながら行く、という展開になっていた。
 違いますって。私は証言集の本が出来上がるのを待つ人である、構成と校正くらいはお手伝いしたいという人である。
 しかしなにげない顔を取り繕って弁当代を支払い、「では当日にまたよろしくお願いします」などと私は口にしていたのだった。

 9月1日午前9時過ぎ、久保山墓地。
 慰霊祭の参加者は160名くらいだった。
 のちに知ったのだが、遠く鹿児島や京都から来られた人もいた。
 開会の辞に続いて、追悼の舞(サルプリチュム)があり、韓国から来日された牧師さんのスピーチ、川崎でヘイトスピーチを許さない市民ネットワーク代表がアピールされた。そのあとに神奈川朝鮮中高級学校中級部1年生による合唱があって、彼ら彼女らを普段から嘲笑したりチマチョゴリを切るような事件の怖さを感じていた。実行委員会内部では、ネトウヨから襲撃される想定での事前打ち合わせをしていたり、東京での慰霊祭に於ける暴力事件なども情報収集していた。関東大震災の頃と現代は、95年が経っているのに、世相も人権意識も、ちっとも変わっていないのだった。
 暴力が嫌い、痛さに弱い。私の性格ではあるが、ほとんどの人間は似たり寄ったりである。
 慰霊祭は妨害する者もなく、無事終わり、そのあと、久保山墓地内にあるお寺の法要にも私は個人的に参加した。そして午後1時、実行委員会の皆さんに混じって昼食を食べた。注文したのは韓国風のお弁当で、彼の地から来られた牧師夫妻もいらっしゃった。
 散会して帰宅したら午後4時半だった。
 そして昨夜、アジア大会でサッカー、日本対韓国の決勝があって、日本を応援していたのだが、延長戦の末1対2で負けて銀メダルとなった。
 普段なら悔しい気持ちが湧くものだが、その10時間前、韓国人牧師の優しい視線と言葉遣いを身近に接していたものだから、さばさばした気分でもあった。
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