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2026年11月01日06:25

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京、甲州、会津、西南戦争など数多くの戦場で戦った「ラスト・サムライ」斎藤一の「義」に生きた生涯(下):西郷軍とも戦い恩賞得る

 下北半島と十和田周辺の斗南藩領(図)は、3万石と称されたが実は旧津軽藩も見捨てていた不毛の地で実高は7000石ほどだった(写真)。会津戦争を生き延びた藩士たちは、飢餓と寒さでバタバタと死んでいった。

◎藤田五郎と改名、警視庁に入る
 斗南藩は、新政府による廃藩置県でわずか2年で命脈を絶たれる。元権大参事の山川浩(写真)や会津藩元家老の佐川官兵衛らは東京に出る。山川浩は会津戦争で戦った土佐藩の谷干城に慫慂され、また佐川官兵衛は同じ旧薩摩藩で西軍に加わり、会津戦争で勇名に接していた大警視・川路利良に三顧の礼で迎えられていた。
 明治7年(1874年)7月に、佐川官兵衛を追うように山口次郎は大警視・川路利良に誘われて東京に移住、警視庁に奉職した。川路らは、不平士族の蠢動に備え、彼の剣の腕を見込み、警視庁に迎えたのだ。
 この年、山口次郎は元会津藩大目付高木小十郎の娘の時尾と結婚した。結婚に際して、本仲人を元会津藩主・松平容保が努めたことからも彼の「会津愛」は藩主にも深く感じられていたことが分かる。この時、山口次郎はまたも藤田五郎に改名している。ちなみに山川浩と佐川官兵衛は、藤田五郎の下仲人を務めた。

◎藤田五郎ら旧会津藩士らは政府軍として西南戦争に大挙して参戦
 そして運命の皮肉が、明治10年(1877年)に藤田五郎ら旧会津藩士に訪れる。郷里鹿児島に帰っていた西郷隆盛ら私学校党約1万3000人が蜂起した西南戦争である。
 藤田らは警視庁警視隊の一員として出征した。この時、藤田と別に警視庁に大挙して入庁していた佐川官兵衛ら旧会津藩士も1000数百人が政府軍として西南戦争に参加している(写真=西南戦争に加わった警視隊の面々。この中に佐川官兵衛もいるが、誰かは分かっていない)。彼らは抜刀隊として西郷軍と白兵戦を戦った(絵=警視庁抜刀隊)。
 山川浩は陸軍中佐として、熊本城に籠城している政府軍熊本鎮台の司令長官谷干城の救援にかけつけ城に一番乗りをするという戦功をあげている。山川浩は、会津戦争で戦った敵将、西軍旧土佐藩のリーダーだった谷干城にその戦功を認められ、強く陸軍入隊を勧誘されていたのだ。

◎会津藩の積年の恨みを晴らす
 彼らの思いは、「戊申の恨み」を晴らす、この一事だった。思うに、旧会津藩士には、西軍中心の長州藩よりも長州を上回る兵力を持っていた薩摩藩への憎しみが強かっただろう。長州は会津藩が京都守護職として京に駐在した最初から敵だったが、その長州に対して薩摩藩は、会津藩と手を組んで、蛤御門の変で長州と戦った。つまり最初は盟友だったのに、途中で裏切って薩長密約で薩摩は会津を朝敵にし、鳥羽・伏見の戦いでは激突した。この戦いで会津藩兵は、約130人が戦死し、約500人が負傷している。会津藩兵は総数1000数百人とされるから、致命的な大損害であった。それだけ最前線で主力の薩軍と果敢に戦ったのだ。
 さらに薩摩は西軍主力として会津戦争では会津にも攻め込んできた。この会津戦争での会津側の戦死者は前記のように3000人を越える。
 西南戦争は肉親や友を殺された積年の恨みを晴らす機会だったのだ。
 参戦した藤田五郎は、ここでも活躍して西郷軍の大砲2門奪う戦功を挙げ、政府から顕彰されている。ただ別の戦線で戦った佐川官兵衛は、敵将と戦っている最中に横合いから西郷軍兵に胸を撃たれて戦死した(写真=阿蘇の高台に建立された佐川官兵衛討ち死にの碑)。死後、靖国神社に祀られる。元「朝敵」としては異例のことだった。
 なお西南戦争で戦死した旧会津藩士は71人にものぼった。翌年の明治11年(1878年)、佐川官兵衛をはじめとする旧会津藩戦死者71名を弔うため、旧会津藩有志によって会津の阿弥陀寺に「報国尽忠碑」が建立された。

◎西南戦争後も後身に剣術を教え学校の守衛にも
 京で新選組に入って足かけ15年、戦乱に明け暮れた斎藤一=藤田五郎の戦いは、ここでやっと終える。最後まで貫いた姿勢は「義」のため、であった。
 戦後、藤田はしばらく警視庁勤めを続けるが、旧会津藩士だった高等師範学校校長・高嶺秀夫に誘われ、高等師範で撃剣師範を務め、その後は女子高等師範学校で武を発揮できる守衛を務めた。

◎大正4年に永倉新八の死の8カ月後に死去
 1915年(大正4年)9月28日、東京・本郷で満71歳で死去。死に当たっては、床の間で正座して生を終えたとされる。死後、第2の故郷である会津若松市の阿弥陀寺に葬られた(写真=藤田五郎の墓)。
 なお奇しくも同じ新選組の同僚だった永倉新八も、同年1月に北海道の小樽で死去している(26年6月24日付日記:「維新後に北海道に移り住んだ新選組の数少ない生き残り永倉新八の足跡を北大前にたどる」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202606240000/を参照)。
 最後の新選組、ラスト・サムライであった。

注 容量制限をオーバーしているため、読者の皆様方にまことに申し訳ありませんが、本日記に写真を掲載できません。
 写真をご覧になりたい方は、お手数ですが、https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202611010000/をクリックし、楽天ブログに飛んでいただければ、写真を見ることができます。

昨年の今日の日記:「『都市で急速進化』のチカイエカ、起源は2000年以上前の古代エジプトだった」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202511010000/

☆新選組関連日記
・26年10月31日付日記:「京、甲州、会津、西南戦争など数多くの戦場で戦った『ラスト・サムライ』斎藤一の義に生きた生涯(上)」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202610310000/
・26年10月11日付日記:「箱館戦争まで戦い幕末を駆け抜けた新選組の希有なキャラクター、島田魁は生涯、同志たちを弔い続けた」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202610110000/
・26年6月24日付日記:「維新後に北海道に移り住んだ新選組の数少ない生き残り永倉新八の足跡を北大前にたどる」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202606240000/
・23年5月31日付日記:「函館の旅(19):新撰組最後の地、弁天岬台場跡を観る:あの島田魁もここで降伏」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202305310000/
・23年5月27日付日記:「函館の旅(17):函館第2の古い歴史の称名寺:土方歳三と新撰組隊士の供養碑と高田屋嘉兵衛顕彰碑を見る」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202305270000/
・23年5月6日付日記:「函館の旅(5):土方歳三最期の地=一本木関門を訪ねる」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202305060000/
・21年3月27日付日記:「幕末に無敵の強さで京の治安を守った武装集団=新選組、戊辰戦争後も生き残った義に生きた武士たちの維新後:後編(斎藤一、永倉新八)」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202103270000/
・21年3月20日付日記:「幕末に無敵の強さで京の治安を守った武装集団=新選組、戊辰戦争後も生き残った義に生きた武士たちの維新後:前編」https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/202103200000/

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