バスを降りると凍てつく寒さだった。
まだチェックインの時間まで1時間以上あったが、予約した宿にリュックを預かってもらって逍遥したい。
ネットで見つけた「ボロ宿」は電話かファクスでしか予約できない今時珍しい宿だった。宿泊代は2500円と入湯税200円。夕食と朝食はそれぞれ1200円と500円とのこと。
電話で対応した女性は朗らかな様子で、食事は当日決めたらいいという。
バス停から宿まで、7分の登り道だった。
宿の前で私は呆然とする。壁はカビが貼り付き割れたガラス窓が目についた。
フロントの自動ドアは壊れているらしく、「お手数をお掛けしますが手動となってます」の張り紙があった。
ロビーには誰もいない。そもそも灯りがついてないので、視界は5メートル先しかない。
ごめんください、予約した者です。
パッと照明が灯った。
50歳前後の、絣の和服を着た女性が現れる。
「お世話になります」
宿泊費は帰りの時でいいと言う。
彼女自ら3階角の部屋に案内し、「このフロア以外は行かないでね。ふふふ、廃墟となっております」と。
お客さんが少ないの?と訊けば「今週は風さんだけです。温泉はあなた独占ですね」
えらい宿を選んでしまった。
1時間ばかり周辺を散歩した。古くからある瀟洒な高級旅館が散見。比較したって仕方ないけど、彼我の差は8千メートル級といったところか。
宿に戻って、藤沢周の文庫本を読むことにした。
1時間半が経った頃、フロントにいた女性が部屋のドアを叩き、食事の準備ができました、と。
大広間のような宴会場で私一人、と思っていたら、彼女の居室に接した6畳くらいのダイニングキッチンに通された。
一人住まいの女性宅を訪れた時のような居心地の悪さを覚える。
4人用ダイニングテーブルで彼女と差し向かい。なんかおかしくないか?
しかし彼女はごく自然な振る舞いで、次々に二人分の小鉢を並べながらお酒の注文を聞く。
悪いね、下戸なんだ。
「じゃあ私が作ったハーブティーでいい?」
一瞬私は戸惑ったのだろう。
「それで死んだ人はいないって」と大仰な仕草で笑った。
山菜、黄色いきのこ、鯛の子煮物、コンビーフみたいな糸状のお肉といった小鉢、メインは上州牛のミニッツステーキ・オレンジソース添えとこんにゃくステーキ・甘味噌タレで、ごはんとイノシシ汁だった。
「何かお困りことがあれば、私のケータイに直接お電話して。館内の内線は壊れてるの」
「それからマッサージは1時間3千円で、申し訳ないけど10時までね」
私はセクハラになるのかな、と思いつつ「まさかあなたがマッサージに来たりして」と返すと、あっさり「そうよ」と言って、右眼でウインクするではないか。
チェックインしてからずっと「やばい」と思っていた。
が、それから3時間後、やばいでは済まされないようなアクシデントが起きた。
階段脇にあるトイレに行ったら、出入り口から60歳年配の女性がドアを開けて出てきた。
館内は私一人のはず。
彼女は階段を降りて行った。
部屋に戻った私はフロントの女性に電話をした。
「夜分遅くにすみません」と切り出したら、「あら、マッサージ?」と答える。
「いえ、それもいいですが、実はいま、廊下でご年配の女性と会いまして、今日はぼくしか泊まってないのにへんだなって驚いたんです」
そこまで言うと、彼女は「わかった。部屋の中にそのままいて。すぐに行くから」。
しかし、5分経っても10分経っても、彼女は来なかった。
この項つづく
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