現代アートから天才が消えた
MLBで活躍する大谷翔平選手、そして、将棋界で活躍する、藤井聡太七冠、まさに若き天才が時代を作っている。野球選手で、天才と言われる選手は、そう多くはない。それも、大谷選手は、規格外の天才だ。本当に夢を見させてくれる。アートの世界にも、かつては天才がいた。ダ・ビンチもそうだろうし、ミケランジェロもそう。近年では、ピカソが天才の部類に入るだろうか。ゴッホは、実は天才だったという説もある。では、現代アートではどうかというと、非常に天才が出難い状況になっている。というのも、文脈が原因だ。天才は、文脈を壊し、飛び越えていく。だが、現代アートは、文脈で作品を評価しようとする。だから、ダイナミズムが生まれないのだ。既成概念の中に、アートを閉じ込めようとしているところは、かつての古典絵画と同じだ。そうしないと評価されないからと従う人も多い。それがそもそもアートではないということに気づかない。セザンヌは、絵画の造形を壊した。だから、新しい世界が拓けたのだ。現代アートは、表現に、理屈を付け、説明しようとする。説明しなくては分からない作品は、作品としての力がない。作品自体が訴えかける生命力がないため、言葉で補おうとする。補うだけでは飽きたらず、それがないと作品を評価しないところまできてしまった。これでは、天才は、生まれない。現代アートは、枯れたアートというイメージか。現代アートの、その有り様が退屈だ。世の中が求めているのは、凡夫ではなく、天才だ。凡夫は、天才を押さえ込んではいけない。天才が育たないと、そのジャンルそのものが衰退する。大衆の熱狂をナメてはいけない。大衆こそが天才を求めるのだ。そして、見抜くのだ、凡夫と天才の違いを。愚衆という言葉は、凡夫が大衆を支配しようとする呪文だ。お前達は、愚か者だから、自分達に従え、と言う。愚かなのは、どっちだ。大衆は、天才の味方だ。天才を貶める者を許さない。現代アートが生き残るには、天才が生まれる環境をつくること。そのためには、大谷選手の2刀流をプロ野球が認めたように、天才を受け入れることだろう。
ログインしてコメントを確認・投稿する