3月19日月曜日。
一週間の始まりはじまり。とは言え、起床時からなんとなくスランプ状態。ウツかと言えばそうでもないのだが、気分がどよーんと曇っていて、まるで今朝の空のよう。気分屋なので自分をなだめすかして普通の状態になんとか持っていく。
……昨夜遅く、久しぶりに「新井千裕」でGoogle検索をした。
新井千裕(あらい ちひろ、男性、1954年1月27日 - )は、日本の小説家。新潟県出身。早稲田大学法学部卒業。新宿区役所職員、コピーライターを経て、1986年、「復活祭のためのレクイエム」で第29回群像新人文学賞小説部門を受賞。
デビュー作は単行本が出た直後に偶然、買って読んだ。『風の歌を聴け』で群像新人賞を取った村上春樹から8年が経っていた。既に村上春樹は押しも押されぬ時代の寵児になっていた。当時の村上春樹は、自分にとっても本が出たらすぐに買う作家だった。
『復活祭のためのレクイエム』については、もうほとんど記憶にないのだが、読んでいる間、村上春樹と近似していること、物語の底流に形而上学的な命題が潜んでいるように思えたこと、悪ふざけのように対象物を突き放して客観視していることなどに感じ入り、2作目3作目と新刊が出るたびすぐに買って読んだ。そこまで惹きつけられるような作品なのかなんてどうでもよくて、ピカソが時代の精神を抽象的に描いたように新井も現代の滑稽さやいびつさを彼独自の手法で模写するというスタイルに徹していたから読むのだ、というだけだった気もする。
デビュー作のあとの作品も、変わらず村上春樹的なテイストがときどき感じられた。そのうち春樹が「偉く」なるにつれて私は春樹離れをし始め、しかし村上のような小説は嫌いじゃないので新井千裕に期待する気持ちが尚一層、高まった。
しかし、新井千裕は自ら尻すぼみを望むが如く文学に対して情熱を失っていく(たぶん)。そのうち全然、本が出なくなっていった。文芸誌への寄稿もない。才能がないわけではないのに。
登場人物には、自室で引きこもってぶつぶつ言っているような自閉症の男がしばしば出てくる。その男たちは決まってワケのわからない行動を取る。といっても決して危ないことをやるわけではない。
本が出なくなると、そこまでファンでもないのに、新井作品を渇望するようになった。
1999年か2000年に私は書籍出版部へ再異動したので、その地位を利用して新井に想い気って連絡を入れ、会ってもらったことがある。
どんな会話を交わしたのか、まったく思い出せない。
が、会ったことだけは確かだ。別れ際、新井が2篇か3篇の短編を渡してくれ、それは自分の宝物になった。最初は会社のデスクの引き出しに保管していたのだが、そのうち自宅へ持ち帰って、いちばん重要な書類箱の底にずっと置いていた。
昨夜、新井千裕のファンだと言う(私よりかなり年下の早稲田出)男が「note」で新井千裕のことを書いているのを読んだ。彼は国会図書館へ行って、未発表の短編をコピーし、昨年末に全部目を通していた。
親近感が湧いた。
〇彼女の赤い薔薇(『月刊カドカワ』1988年5月号)
〇薔薇の庭の蛇(『小説中公』1994年9月号)
私がいただいたのはこの2篇だと思う。
今日、そのコピーを探し回ったのだが、見つからなかった。しかし、絶対に捨ててはいない。
さて、2014年に『プール葬』を出して以降、新井は完全に消えた。
私が彼に会ってから20数年経っているので、昔の住所録にある電話番号なんて違っているだろう。また、版元所属の編集者ではないので、彼に「今こそ本を出しませんか?」などと言いにも行けない。
あまり書きたくないのだが、21世紀に入った頃から、大きな新刊書店に入ったら文芸エリアへ行って、現代文学の「あ」の棚に新井千裕の名を探すのが習慣となった。先週末も有隣堂でもその儀式をした。
もらった短編をまず探してみよう。
そこに2024年のヒントになる種があるかもしれない……。
新井さんは(ご存命なら)今年70歳になられる。60歳代になにか書かれているのかしら。老人が主人公の新井千裕作品なんて想像出来ないだけに、今こそ読んでみたい。
才能は年齢とともに枯渇するものかもしれないが、新井さんの場合は才能以前の問題で、希望だとか情熱だとか怨嗟とか怒気とか、よくはわからないけど「感情衰弱」に起因しているのではないか。
とにかくもう一回、新井千裕を読み直そう。話はそれからだ。
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