クラシックアートとモダンアート 抽象絵画の失敗
抽象絵画が失敗した理由の1つに権威付があった。抽象絵画を認めさせるために取った戦略が、権威付だった。抽象絵画は、優れたもので、芸術としても最高のもの、至高で、崇高な芸術そのもの。100歩譲って、ここまでは許すとして、その後が、失敗の最大の原因だった。具象絵画を攻撃し始めたのだ。だが、もちろん無理筋で、クラシックアートのほとんどが具象絵画な訳で、それを否定することは、絵画そのものを否定するのに等しい。どうして、こんなアホな無理筋を選択したかという理由は、政治的なもので、芸術とは関係のない利害関係が働いたためだった。抽象絵画そのものは、絵画の1ジャンルとして、古くから存在していた。具象絵画と抽象絵画は、本来対立するものではない。抽象的表現は、絵画では、普通のことでもある。例えば、四角や三角と言った図形。文字もそうだ。書道は、文字を描く芸術でもある。抽象化することで、表現の幅を広げてきたのは事実だ。その図形を使った絵画や、文字を使った絵画、また、不規則な形や色を使った絵画も抽象画というと難しいと感じるだろうが、子供の描く絵は、ほとんどが抽象的だ。具象画のように描く子供は、ほとんどいない。ドロップ式の表現にしても、陶器などでは、普通に使われている技法でもある。釉薬を流す手法だ。それをある時、抽象画は、特別な絵画だと言い出したものだから、おかしくなった。絵画を言葉で語るようになった弊害だ。この、絵画の言語化は、印象派の時代から、始まっていた。手法も同じで、オールドスタイルをクソミソに言い、新しいスタイルの絵画が優れていると主張する。この時も、印象派とアカデミック絵画の間で、軋轢が生まれている。新古典派とロマン派の対立も同じ。権力闘争の意味合いもあるが、自分の売りたい絵画は、他の絵画より凄いと、ただ、言いたいだけ。深い意味などない。本当に凄いかどうかなんて、どうでも良くて、凄い凄いと言い続けていれば、そのうち、凄いと思われるようになるだろうという、幼稚なロジック。実際に、これに引っかかる人は、多い。絵画を言葉で見る人が、結構多いからだ。画家の肩書きや、絵の説明を熱心にチェックする人は、このタイプだ。図録を買っても、絵よりも、説明文を熱心に読んでいる。それが、悪いと言うつもりはないが、それより、絵を見て、感じて欲しいとは思う。一般の人は、抽象的な絵を嫌いなのか、理解できないのか、というと、これが、違う。服の柄だ、色だ、デザインだ、自分の服を買う時、どれだけ真剣に吟味することやら。服の柄などは、抽象的なものが多い。だが、購入する時は、これが気に入らない、これが好きと、はっきりと自分の好みを主張する。つまり、分かっているのだ。良し悪しを。中には、無頓着な人もいるだろうが、自分の着る服を何でも良いという人は、少ないだろう。色を選択し、デザインを選択し、柄を選択している。そんなお客さんを無能で無知呼ばわりしていては、商売は、成り立たない。では、どうして、抽象画は、分からないと言うのか、というと、興味がないからだ。基本、興味がないのだ。だから、そんな人を振り向かせるために、多弁を尽くす。口上というやつだ。抽象画は、いつのまにか、言葉で着飾るようになってしまった。近代絵画の最大の失敗は、これだろう。本当に、素晴らしい絵画に、説明は必要ない。見ただけで伝わってくるものだ。では、全く説明は、不必要かというと、それは、違う。やはり学問として絵を研究している人には、情報は、重要だ。その絵のバックグラウンドも研究しないといけない。そんな専門家は、言葉に惑わされないような鑑賞眼が必要。贋作を見分けるのも、そのような眼だ。絵画愛好家の人達も、着飾った言葉に惑わされないようにしよう。
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