昨夜は午後9時半、サツマイモを米油で揚げただけのおやつを食べた。ラズリにも与えたので歯を磨いてあげた。懸命に歯を食いしばろうとするのだが、私の手が口吻の奧にあるため嚼むことができない。ういヤツじゃのう。犬を飼ってると世話が焼けるし、観葉植物を家のあちらこちらに置いていると水や液肥を適切に補給してやらなければいけない。こういう日常のルーティンは自分の健全さに欠かすことができない営為だとしみじみ思う。
慌ただしいうちに一日がほぼ終わろうとしている。午前中、詩人の全集構成をワープロアプリでまとめ、プリントアウトした原稿を斜め読みをしながらチェックした。
午後イチ、新聞社の出版部・担当編集者に手紙を書き、午後4時前、原稿が詰まった段ボール箱を郵便局から発送した。なんとか年内に第一次草稿をまとめられて安堵。ざっくりとした計算でしかないけれど、原稿用紙換算で1500枚から2000枚という文章量だ。
とにかく出窓に積んでいたプリント用紙が目の前から消えてほっとした。息つく間もなく九条の会の議事録を清書したり、返信せざるを得ないメールの返事を書いたりしていると、午後6時近くになっていた。
郵便局からの帰り道、頭の中でチューリップ(フォーク系グループ)の「ぼくがつくった愛の歌」が脳内に流れ出し、歌詞やメロディがリフレインする。ぼくが浪人中に大ヒットした曲で、その頃はロックかぶれだったにもかかわらず、銭湯の行き帰りとか街をほっつき歩いているときにしばしば口ずさんでいた。
https://www.youtube.com/watch?v=cqgzsyKxfkM
後年、NHKのある番組で作詞作曲を手掛けた財津和夫が「ホントは(ボーカルの)姫野に歌わせたくなかったが、ぼくが歌うとヒットしないかと思って」というような思い出を語っていた。財津和夫は大瀧詠一と同じくらいに好きなミュージシャンの一人なのだが、時々すごく謙虚だったり礼儀正しいように映る。自分が幾分、謙虚さや礼儀正しさに欠けているからだろうか、彼のような人の良さを見る感覚にぼくは長けている。
昨日の朝刊一面コラム「折々のことば」で福岡伸一さんの言葉が取り上げられていた。
「自分が疑えないのは最も知的ではない。自分が無謬であると考えるのは最も知的ではない」
解説にこのようなことが書かれていた。
<競争で大抵の人は負けるわけだし、研究も95パーセントは思ったようにいかないもの。でもそういう敗北の悲哀を内に湛えることで人は世界に対して謙虚になれるのだ、と生物学者は自身の研究人生をふり返りながら語る。知的であることの一番の意味はこうした謙虚であると。>
同感……以前に、福岡博士でも研究で95パーセントは首尾よくいかないのか、と嬉しくなった(笑)。それならぼくのような人間だと99パーセントうまくいかなくて当然だ、と安堵した。
負け犬で結構、と開き直ることを来年の目標としたい。そろそろ来年の抱負を考える時期になってきた。
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