昼ご飯を食べたのち、身体を動かしたいがためという目的で図書館へ行く。家を出たところで、アゲハ蝶が前から私の頭上に向かうように飛んできた。さらにすぐあと、今度は黒アゲハが私にまとわりついてくるようにしばしの間、宙を舞っている。iPhoneを持っていたので撮ろうとしたのだけど、止めた。一瞬、仏の使いのように感じたからだ。でも、そんな守護霊なんてあるわけありませんね(苦笑)。
図書館に行く道の途中で、某カフェに立ち寄った。その店は京都の有名な染織家の娘さんがオーナーで、小紋と呼ばれる着物柄について教えを少し乞いたいためだ。
友人が江戸小紋の本を企画立案していて、この1週間で2回ばかり、電話でこの話を聞いていた。
着物の知識はゼロに等しい。「江戸小紋」でググって知識を得るのが手っ取り早い方法だが、友人から向学のために気合いを入れて柳宗悦の本を読んでいるというようなことを聞くに及んで、私もそれなりのアナログ的なアクションをしたいと思った。
「小紋について5分ほど概略を聞きたい」、と告げたにもかかわらず、結果、40分くらい時間を割いてもらうこととなった。
無地無菊、無地無松、青海波といった一般的な小紋を見せてもらう。私の食いつきがいいのか、彼女はいったん自宅の奧にひっこんだあと、江戸小紋の大家でいらっしゃる小宮康孝氏作の「宝亀」「極鮫」「ひじき」を広げて見せてくれ、さらに本物の(絹の)小紋が収められた分厚い事典をテーブルの上に広げた。
こんなに間近で小紋を見るのは生まれて初めて。一見開きずつ見ていると、彼女は型紙に紋様を描く段階から染色までの過程を説明してくれる。で、実際に使っている彫刻刀のような切っ先鋭い刃物や、「伊勢の型紙」の実物などをテーブルに置いた。
いきなり人間国宝のような職人が作った小紋や、実際に使われている台紙(型紙)を見られたことは、今日の私にとって僥倖以外の何ものでもない。
カフェを辞した後、図書館に向かった。まず雑誌棚へ行って、「本の雑誌」今月号をざっと「立ち読み」した。椅子がすべて埋まっていたためだ。「ミステリー新時代到来!」と銘打たれた特集で、ミステリー作家が15人くらい挙げられていたのだが、知っている名前はわずか1名、辻堂ゆめさんだけ。辻堂さんって新時代ミステリだったの? いい機会だ、辻堂さんの大藪春彦受賞作でも一度読んでみよう。しかし、残念ながら図書館に受賞作はなかった。
今日は借りずに帰る。
トイレに行こうとして、リサイクル本が並べられている机のそばを通ったら、本がいっぱいあったので、立ち止まってチェックした。
あらら、筑摩版の現代日本文學体系が10冊くらい並んでいる。中に葉山嘉樹・平林たい子、黒島傳治が収められたプロレタリア作家集があって(昭和46年刊)、まさかただでこんな本が手に入るとは、と狂喜乱舞。5年くらい前から戦前のプロレタリア作家に俄然興味を抱いて、たとえば葉山嘉樹については2〜3冊読んでいた。本書に収録されている「淫売婦」と「海に生くる人々」は既読だったのだが、黒岩と平林についてはほぼ知識がなかった。
ほくそ笑むとはこのことで、にやつきながら持参していたトートバッグに入れた。ラッキーな週末だ。
まだ太陽の光が燦々と差し込んでいる家路を歩いていると、遠くからすべらかな歌が聞こえ始めた。この時期、鎌倉ではカーステレオをがんがん流して窓を開けている観光客系の車が多いので、その類いであろう。しかし、歩を進めるにつれて少しずつ音量が高まって来るのに、前方にクルマの影はない。
とうとう歌詞が理解できるほどになった。
音源は「鎌倉美学」というカフェ&バーからで、どうやらライブをやっているらしい。
店の前まで来ると、道に面したサイドはほぼ前面ガラス張りで中の様子がはっきりと見える。そしてこの暑い時期なのに、コロナ対策のせいでドアが全開になっている。それで大音量となったわけだ。
窓の前で立ち止まり、彼の歌を最後まで聞いた。ギター一本の弾き語りなのだが、ギター音とボーカル音がまるでスタジオ録音のCDみたいに調和がとれている。だから、私はカーステだと誤解したのだった。
最後のほうで、シンガーと目が合ったような気がした。さらにさらに、彼のそばで聞いていた女性が私の姿をはっきりと捉え、真っ直ぐな視線を送って微笑んだ。
私は基本的にシャイな性格で、会話の際に視線を長々と絡めるようなことはしない。が、その真逆もあって、自分の挙動を明らかにしたい時は、必ず相手の目を見るようにしている。またしばしば、まったく知らない人に対しては、単なる好奇心からぶしつけなほどに見つめる癖もある。
彼の歌が終わってしまった。もう1曲くらい、店の外で堂々と立ち聞きしたかった、と思った。
立ち去ろうとしたところで、その彼が店の外に出てきて、私に話し掛けたのだった。
3分くらい、立ち話をした。元会社員、42歳、数年前に結核を患った、離婚した、今はギターを教えている……。そんな個人的な話をしてくれたのは、きっと私が心底、彼の歌に感心したことを感じ取ってくれたからだろう。
私がインスタなどをやっていないこともあって、名刺を交換することになった。彼から渡された名刺を手にした瞬間、あっと思った。その名刺は厚手の用紙に活版印刷されたもので、猫のイラストと名前が印刷されていた。このセンスと端切れの良さ!
(書いちゃっていいのだろうか)
あべたかしさんと言う。
歌とギターが上手いというだけではない。人間味あふれる魅力があって、人生を謳歌する志向が伝わってくる人間性がある。
別れ際、彼から握手を求められた。
手をしっかり握った。
こんなに強くひとの手を握ったのは久しぶりで、なんだかしばらくの間、手を洗いたくないくらい、その強さを手に残しておきたかった。
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