フォルムの実際 ピカソが傾倒した新古典主義とセザンヌ
ピカソは、一時期、新古典主義をオマージュした作品を描いていた。どうして、あのピカソが新古典主義に注目したのか、お分かりだろうか。ピカソは、セザンヌにも傾倒しており、実際にセザンヌの作品をコレクションもしていた。これは、かつての印象派の画家達が、日本の浮世絵をコレクションしていたのと同じような理由からだろう。画家が、他の画家の作品をコレクションする場合、自分の絵画制作に深く関わりがある場合が多い。では、セザンヌと新古典派は、どういう関係だったのだろうか。一見、その共通点は見受けられないように思える。西洋絵画ファンなら、あるいは気づいているかもしれないが、新古典派の絵画は、古典という名を冠してはいるが、それまでの西洋古典絵画とは異質な絵画だ。新古典派が理想と崇めた作品は、ギリシャ、ローマ時代の彫刻だった。ギリシャ、ローマ時代の彫刻の多くは、人間の姿を借りて神を表現しているわけで、そこには、人間を表現しようとする意図はない。人間の姿はしているが、あくまでも神であるため、その姿も理想化されており、人としての生々しさがない。人前で裸をさらしていても、それは、女神だから許される、と理解された。ギリシャ、ローマ時代以降の古典絵画では、人を描こうとするようになる。人間としての、様々な側面を赤裸々に描いた作品が古典絵画には多い。ところが、新古典派は、そういった、西洋古典絵画の歴史を真っ向から否定する。優れているのは、ギリシャ、ローマ時代の彫刻であり、ラファエロだと、新古典派の巨匠であるアングルは主張する。ロマン派は、それまでの西洋古典絵画の様式を継承していた。新古典派のアングルが、ロマン派の絵画を嫌う理由を理解できない人は多いのではないだろうか。ロマン派の代表的な絵画と言えば、ドラクロワの、民衆を導く自由の女神だ。非常にドラマチックにフランス革命を描いており、フランスの国宝となっている完成度の高い非常に優れた作品だが、アングルは、認めようとしない。ロマン派の作品は、ギリシャ、ローマ時代の彫刻とは作品の方向性が違うというのだ。ここまでくると、アングルの価値観は偏執的という他ないだろう。アングルは、ドラクロワとも対立していたのだ。ピカソは、人を人として描こうという方向性が希薄だ。まったくないわけではなく、恋人を具象的に描いているような絵画は存在するが、ほとんどの作品は、人を人のように描こうとはしない。人を人のように描くことに、ピカソは興味がなかったのだろう。ここに、ピカソと新古典派の共通点があるように思える。どちらも、人を人として描こうとはしないのだ。アングルの描く人物画は、どこか、彫刻的だ。石膏像のような顔立ち、まるで作り物のような体。理想化と言えば聞こえはいいが、生々しい人としての息遣いに、まるで興味がないのだ。セザンヌの場合、初期の頃は、人を人のように描こうとはしていたのだが、画力が付いていかず、アカデミックな具象絵画は、結局描くことができなかった。セザンヌ本人は、印象派の画家の中でも、最も古典絵画に強い興味があった画家の一人だったのだが、、。そのために、サロンに固執し、ドガと確執が生まれ、印象派のグループから去ることになる。セザンヌの、古典絵画崇拝が、新しい流れを作ろうとするドガ達と、対立するようになってしまったのだ。印象派時代、ドガは、非常に先進的で、セザンヌは保守的だった。この事実も意外に思うかもしれないが、セザンヌが、セザンヌの絵画を完成させるのは、晩年になってからの話で、パリ時代には、印象派に参加しながらも、古典的な絵画をサロン用に描いていたのだ。セザンヌに、高いアカデミックな技能が備わっていたら、そちらの方面に進んでいたのではないか、と思われる。セザンヌが、ブグローを高く評価していたのも、そのためだ。幸か不幸か、セザンヌには、アカデミックな絵画を描く能力が決定的に欠けていたため、独自の絵画スタイルを追求するしかなかった。そして、幸運にも、資産があり、田舎に篭って、自分の絵ばかりを描くことができた。それが、晩年に花開いて、画家として認められるようになる。新古典派も、セザンヌも、絵画の造形的な部分で、他の西洋絵画とは、大きな違いがあり、ここで、西洋絵画は、分岐点を迎えることになる。造形そのものの創造を目指していたピカソは、新古典派とセザンヌの共通点を見出し、傾倒する。そして、西洋絵画そのものが、それまでのアカデミックな造形を否定する方向に大きく舵を切り、アカデミック絵画の巨匠であるブグローを否定し、忘れ去っていった。分岐点であるため、道は、別れていくのだが、西洋絵画の歴史は、その後、片方の道が全てであるかの様に、もう片方の道を無視し続けようとする。もう、片方の道とは、ブグローが描いていたような人間を人間として描こうとする具象絵画の世界だ。
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