昨夕の午後4時半、横浜・伊勢佐木町にある有隣堂本店に入った。
店内1階を大雑把に一周していると、10分ほど経ったところで桂歌丸さんのコーナーがあった。スタッフが手書きのポップが立っていて、「長い間、お疲れ様でした。お元気な頃、よく来ていただいてありがとうございました」というような内容のメッセージだった。
読んだ瞬間、幸福感が混じった感動を覚え、涙腺がゆるみそうになった。
歌丸さんの落語を直截に聞いたことはないし、テレビ番組「笑点」もまともに見たことがない。なぜ胸が詰まったのだろう?
歌丸さんと有隣堂相互の地元愛がダイレクトに伝わってきた、というのが第一の要因だ。
個人→家庭→住まいのある地域→行政上の区域(市や県)→国家という順で私たちは生きている。社会と言えるのは住まいのある地域=地元だ。地元の人に愛されている、地元の人や店や風景を愛している、という微笑ましい関係がポップと歌丸さん関連の棚に昇華されていたから、嬉しく感じたのだろう。
第二は歌丸さんの穏やかなで人情味のある性格と、終生横浜の下町に住み続けられたことだ。そのようなかたが亡くなられたのだ。愛しくないはずがない。
第三は、私が横浜と有隣堂に適度な絆があるからだ。学生時代は有隣堂本店に通い続けた。歌丸さんの家がある真金町近くまでが馴染みのあるテリトリーで、いまもなお親近感がある。現に今日、JR関内駅で降りて、向かう先は野毛にあるライブハウスなのだが、有隣堂からは約1キロ、歌丸さんのお宅がある真金町も約1キロだ。繁華街となって百年の歴史がある街。すぐそこに、明治の外国人居留区があって、賑やかなな売春街があって、関東大震災で大勢の在日朝鮮人が虐殺され、復興20年後には横浜大空襲で一軒残らず人家も商店も焼け、戦後は日本でも有数のジャジーでロックな街になった。
第四は、たとえ歌丸さんより2世代程度下であっても還暦を過ぎた頃合いから自分がやがて死ぬという実感が涌いて来たから、他人の死に痛みを覚えるのだろうと思われる。50歳くらいまでは、老いて死ぬことは絵空事のようにしか感じられなかったし、災害報道でご不幸が報じられるニュース映像を見てもあまり哀しみなどなかったように思う。
有隣堂を出て、ぶらぶらと伊勢佐木町を歩き、疲れたところで引き返して、桜木町に向かった。途中、福富町という一大歓楽街があって、道行くひとは皆、怪しい。土曜日の午後6時過ぎという時間は、バーやフーゾク店や、あるいは韓国焼き肉屋やアジアン料理店、どことなく入りにくそうなマッサージ店などなど、勤める側も入る客側も、一癖も二癖もありそうな人たちが主で、私のような善良なる市民は頭の中で「まさか因縁をつけられるわけはないなぁ」などと思いつつも、ソープランドの入口前にいる黒服とは目を合わせられないのであーる。
大岡川をモノクロで撮ってみた。私が横浜に来た昭和50年当時、このあたりには木造のハシケがたくさん浮いていて、水上生活者もちらほらいた。今でこそ桜の季節は花見客で賑わっているが、昭和の時代、ごく一般的な家族連れなど皆無に等しかったことだけは断言できる。
お腹が空いてきた。学生時代から行きつけの中華屋の前を通ったらやっぱり混んでいたので、晩ご飯は桜木町でもっともチープと思われる松屋に入って、カレー牛を食べた。カレーに牛丼の具が添えられた珍品で、食べたことがない人ならゲテモノだと想うだろうが、醤油味の牛とタマネギと、カシミール風のカレールーの組み合わせが違和感なく美味しい。590円という値段にぴったり見合った味でもある。
で、午後6時45分、お目当てのロックなバーに入店。
先輩ミュージシャンのライブは、可能な限り行く。先輩は私より4歳上だが、在学はなぜか被っている。私の頃の留年率は3割を超えていて、6年生7年生というのも結構いた。放校になってもまだ大学でうろうろしている得体の知れない元学生もいて、社会の掃き溜めのようなところとも言える。福富町と同じか(笑)。
ライブは午後9時に終了。酒を飲まないので終わると同時に店を出た。
うちに帰ってシャワーを浴びたあと、今夜、先輩が歌われた曲を5曲ほどCDで聴き直した。昔から歌詞カードを見ながら聞かないと、詩の流れと意味がよく掴めない。これは私に限った咀嚼能力のなさなのだろうか?
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