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2018年05月09日21:23

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20年ぶりの日向敏文

 日記というのは、詳細に綴るとたった一日のことでも原稿用紙300枚くらいは書けるものだし、寡黙な哲人を装うと書くべきことなど一行もない。
 月曜から天気が崩れて、日中でも自室は新聞が読めないほどに暗い。この部屋は南向きで、窓は南側と西側の2つがあるのだが、部屋の周囲には樹齢50年超えの欅や山桜などがあって、この時期になると歯が生い茂るので、晴天でも手許の照明が必要だ。ましてや厚い雲に覆われた雨天であれば、夜に近い昏さだ。
 連休中は快晴続きで日中は落ち着かなかった。パソコンに向かったり本を読んだりするのがつい不健康に思えてしまい、出たり入ったりの多動症候群になっていた。だから月曜日から雨続きとなって、ようやく気持ちが平穏になった。心置きなくいくらでも本が読めるのだ。集中力は1時間で切れてしまうが、5分か10分、体を動かしがてら掃除をしてみたり珈琲を淹れて飲んだりしたら、また読書に戻れる。雨が樹木に降り注ぐ音が聞こえたり、雨がやんだら四方を飛び交う鳥の声が心地よい。
 その昔お気に入りだったCDを、10年20年ぶりに聴き直しているのも心地よい。頭を100パーセント働かせないと理解できないような本を読む場合はBGMを流さないが、エッセイ集や雑誌の類を読んでいる間は、ミニコンでCDを掛けている。ミニコンポを買って自室に置いた日から、毎日、最低でも1枚はCDを聴くようになった。パソコンの音楽ファイルやYouTubeの音楽動画をBluetooth接続でコンポに飛ばして聞く音と、CDの音質とは、猿でもわかるくらいに違いがある。
 昨日は、バッハのオルガン名曲集「トッカータとフーガ」というCDを流したところ、まるで教会の中で聴いているくらいに音質がよくて、荘厳ささえ感じられた。このCDは音楽誌の評で音がいいと紹介してあったから買ったのではなかったか。90年製のCDだが、その頃はかなりマニアックなオーディオシステムだったので、好きなアーティスト曲とは別に、音を買う、というようなこともときどきやっていた。クラシック然り、バリ島のガムラン音楽然り。
 今日は20年ぶりくらいで日向敏文の「いたずら天使」を聴いた。80年代後半から90年代初頭、日向敏文のCDは最もよく流していた。あれだけ好きだったのに、どうして全く聴かなくなってしまったのだろう。友人知人の類と同じで、一時期は1週間に1回は会ったり長電話をしたりしていたのに、いったん疎遠になり始めたら関係性がほぼ潰えてしまうのと同じか。
 日向敏文の曲の中でいちばん彼らしさが発揮している曲はこれか。



 CDを聴き終えてから、ネットで日向敏文のその後を調べたら、ほとんど活動していないようだった。私より1学年上だが、21世紀以降、どんな生活をしているのか、下世話な興味を抱いてしまった。
 さて、連休が明けてひとも社会も動き出したのだろう。昨日今日と郵便物がたくさん届いた。私信もあれば献本もある、連休中にAmazonで注文した大手電気店でも売っていないハロゲン球とプリンタの互換性インクカートリッジ(メーカー正規品の10分の1の値段!)も届いた。返信をしないといけない手紙もあった。
 日中なのに暗い自室のなかで、手紙を読み、プリンタのインクを交換し、残り30ページを残して3日が過ぎてしまった『金子光晴の唄が聞こえる』(松本亮著)を今日読み終えて、この小さくて静かなる生活が自分に合っているという実感が湧き起こった。しあわせという言葉が小さな頃から嫌いなのだが、それは得体も実態もない想念を大仰に括るいやらしさが鼻につくからであって、いまの自分にそこそこ満足があるという充足感とか、なんとまあ好運を与えられたのかいう感謝だとか、そういう類の感情は、当たり前のことだが好ましい。
 金子光晴に近しい「お弟子」が描いた金子光晴の知られざる一生と、金子光晴への敬愛が充溢した本であった。東南アジアの安宿はどこも室内が暗いのだが、今日の午後、暗さだけは安宿と同じという自室でこの本を読了できたことがよかった、評伝を書くというのはやってみて存外難しいものだ、と感じて怖くなっていたのだが、この本で怖さが少し和らいだ。素直さがいちばん大事、とわかった。
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