23日、ハイヒールのはてな?は、花火 江戸時代、飢饉や疫病が流行って何十万人と言う人々が亡くなった。その慰霊と疫病退散を祈願して江戸の隅田川で花火を打ち上げたのが始まりだと言う。当時の花火は、赤橙色ばかり、花火にカラフルな色が付くのは西洋花火が日本に入ってくる明治以降になるのだそうだ。さまざまな花火が開発されるなか、三尺玉が作られた。300kgと言う重さの三尺玉を夜空に打ち上げる。限界かと思われたが、三尺五分と言うわずかに三尺よりも大きな花火が打ち上げられる。これが巨大花火競争の始まり。わずかずつ大きくしていく。刻むな、と、たむけん。三尺五寸まできた時に、これじゃ埒が明かない、とばかりに一気に四尺まで大きくなった。ところが、420キロにも及ぶ巨大な花火に、打ち上げ許可が下りない。そこで、安全性を証明するために、420キロの砂玉を打ち上げてみせた。無事成功して、四尺玉の打ち上げ許可も出る。だが、本番での四尺玉打ち上げ失敗。四尺玉は上がらず。翌年、世界で初めて四尺玉の打ち上げに片貝まつり花火大会で成功。ギネスに載った。大きいため、なかなかコントロールが難しく、その後も失敗する事もあったようだ。初期の四尺玉は、まだ綺麗な円を描けていなかったが、今では、正四尺玉となって、綺麗な円形の花火となっている。これ以上大きくなると、どうしても、円が崩れてしまうので、四尺玉が限界ではないか、と言われている。
番組では、伝説の花火師として、嘉瀬誠次の物語を伝えていた。嘉瀬誠次は、戦時中、北方の千島列島に配属されていた。戦争が終わるとソ連軍が侵攻して来て、嘉瀬誠次達は、ソ連軍の捕虜となる。シベリアに送られて極寒の中強制労働をさせられた。飢えと寒さで次々と戦友達が命を落としていく。その様が嘉瀬誠次の脳裏に焼き付いて離れない。数年後、何とか生き延びた嘉瀬誠次は故郷の新潟県、長岡に帰ってくる。長岡は、米軍の爆撃を受けて、焼け野原になっており、その状況に愕然とする嘉瀬誠次。日本中の主要な都市は、爆撃でほぼ、焼け野原のような状況になっていたのだ。稼業が花火師だったため、帰郷した嘉瀬誠次も花火を始めようとするのだが、物資がまったく足りない。それでも、日本の復興と平和を願って三尺玉を打ち上げる決意をする。苦労しながら三尺玉を制作し、長岡が空襲された同じ日、同じ時刻に、空襲警報と共に、長岡の家々の電気が消され、真っ暗な夜空に三尺玉が打ち上げられた。見事に咲いた巨大な花、その花火を見上げながら、人々は焼け野原からの復興を誓う。そうやって花火師としてのキャリアを重ねて行く嘉瀬誠次だったが、なぜか、白い花火に拘っていた。綺麗な白色を花火で出すのは難しいそうで、その白の美しさから白の嘉瀬誠次と呼ばれるようになっていく。嘉瀬誠次が花火の白に拘ったのには訳があった。後年、シベリアでの花火大会のオファーがあった時に、日本から花火を沢山持ってシベリアに向かう嘉瀬誠次。何十万人と言う人々が見学に押し掛けていた。華やかな花火の共演を堪能した観客だったが、花火大会の最後に、嘉瀬誠次が打ち上げた花火は、真白な花火だった。白菊と命名された真白な花火が、シベリヤの夜空に供えられる。シベリアで亡くなった戦友達への供養だったのだ。嘉瀬誠次は、どうしても、白い花火を作り出したかった。シベリアで眠る戦友達への鎮魂、その思いが叶えられたのだ。この白菊は、長岡の夜空にも供えられる。平和な世が続きますように、戦争がなくなりますように、そんな思いが託されていた。
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