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2015年05月28日09:23

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フォルムの実際 19世紀 想像と創造と

フォルムの実際 19世紀 想像と創造と 
 長い西洋絵画の歴史の中で、印象派が色彩の革命を起こしたのは事実で、大きな意義がある事は疑いようがない。しかし、流行が上辺だけをなぞるのは世の常で、色彩の通俗性と相まって西洋絵画に限らず、絵画が誤解される原因を生み出してしまってもいた。芭蕉の言うように、不易流行の捉え方から、流行の持つ通俗性をどう受け止めるのかは重要なテーマとなっていく。印象派の画家達が追い求めていた美は、風俗であり、人がその時に生き、生活している様でもあった。風景も人を通して見た情景を主に主題としていた。それが、即物的だと言うアカデミック系からの批判は、アカデミックの持つ問題点でもある。普遍的価値、崇高、純粋、と言った、エッセンスを強調し過ぎるために、ある種の生々しさを排除せざるおえなくなっていた。それが、当時のアカデミック絵画が印象派を評価できなかった大きな要因の1つだった。ただ、生命力は生々しさの中から生まれてくるもので、艶かしさをも含めて、普遍的価値も持たず、崇高でもなく、純粋でもない表現を排除してしまうのは、生命力そのものを否定してしまう結果となってしまうのだ。ゾラの言う印象派の未完成さは、まさにこれに当たるだろう。普遍的価値も持たず、崇高でもなく、純粋でもない、ゾラには、初期の印象派の絵画はそう見えたのだ。だが、印象派は、画家にとって過渡期的な段階を意味すると解釈すれば、その後の展開も初期の未熟さも理解できるのではないだろうか。印象派を完成された絵画スタイルと考えるのは無理がある。未完成さこそが印象派の最大の特徴でもあったからだ。
 印象派を取り上げる場合、色彩ばかりに焦点を当てると印象派を誤解してしまう。当時の色の3原色による混色理論は理論的には正しいが現実には実現できない机上の空論でもあった。その後、画家達は、3原色による混色理論は実現できない事が分かり、黒が重要である事にも気付く。そして、黒の使いこなしがスタンダードとなっていく。色彩は、原色の組み合わせからナチュラルカラーを重視する描写へと変わっていった。色の3原色による色彩理論を元に発展していったのはカラー印刷の世界だった。色の3原色の組み合わせを深く知りたかったら、絵画よりも印刷を学んだ方が良いだろう。印刷には油性インクが使われており、3原色の組み合わせや、どの色から置いていくか等、マニュアル化されている。カラー印刷の研究からも、黒の重要性が再認識される。版画も一種の印刷なので、絵画とも深い関係にある。色の3原色による色彩理論は、印刷の世界で大きく発展していく。カラー印刷の世界で、黒の持つ重要性が再認識された理由は、色の3原色だけでは非常に不自然で、そこに黒を足す事で自然に見えるためだった。黒いインクによる一色印刷をベースにして色をその上に重ねるやり方は、絵画のグリザイユと同じなのだ。
 印象派は、色彩的通俗性を持っており、一般受けする絵画だったが、新印象派やポスト印象派になると通俗性が失せ始めていく。これも、画家が意図的にそうしたものだ。新印象派やポスト印象派では、印象派の即興性は失われ、造形性が重視されるようになっていく。同じように印象派と言う名前が使われながら、絵画としての造形が、印象派と新印象派そしてポスト印象派では、かなりの違いがある。絵画的には別物と考えた方が理解しやすいだろう。西洋絵画から通俗性が失せ始めた事で、一般の絵画愛好家との間に感覚的なズレが生じていく。このズレは、時代と共に、さらに広く深くなっていく。セザンヌでさえ、一般の人達には今でも理解しがたいのではないだろうか。印象派の持つ通俗性は、多くの絵画愛好家を惹き付けるのだが、それは、あくまでも絵画の表層的な現象を見ているに過ぎない。さらに深く理解しようとする人は少ない。色彩の通俗性は印象派の特徴でもあるが、フォルムにおいても同じような通俗性が見られるようになる。それが写真だ。写真は19世紀当時から流行し始める。写真のようなデッサンが、デッサンの目的だと信じている一般の人も沢山存在するだろう。これも写真の持つ表層的なフォルムや平板な調子がそうさせるのだが、絵画の造形とは別物だ。写真には絵画的造形が抜けている。写真は影と言われるのはそのためだ。写真は、平板な陰影によってフォルムが表現されている。絵画は、通俗性を捨て始め、通俗と対極にあると思われる崇高で純粋な芸術を目指すようになっていった。それが、さらに混乱を加速させ、結果的に現代アートは瓦礫の山と化してしまう。崇高で純粋なアプローチから崇高で純粋な芸術を創作しようと言う魂胆がそもそも間違いだったのだろうと思える。これも、色の3原色による混色理論と同じで、理論的には成立するが現実には存在しえなかったのだ。脳内の崇高な芸術が、実際の形を持つとただのゴミに変身する。普遍性や崇高さを感じさせる実在の名作は存在する。しかし、現代アートは、そのような傑作に到達する筋道が間違っていたのではないだろうか。純粋から純粋が生まれる。崇高からは崇高が生まれる。そのような考え方の根本には階級社会的思考が隠れている。出自によって未来が決まるような考え方だ。だが、現実には、そうはならない。画家の2世で大成した画家は、ことのほか少ないのだ。これは芸事も同じだろう。だからこそ画家は弟子を取ったのだ。血のつながった自分の子供ではなく、自分の弟子の中から優秀な者を後継者としていた。絵画も血筋は重要ではない。崇高から崇高が生まれると言った考え方は絵画には適用できない。絵画は師匠から弟子へと受け継がれていくものだった。これは、絵画のアカデミック化を進めたフランスでも同じだった。やはり、若い画家は師に付き教えを乞うたのだ。美術学校で基礎を学んだ後に画家に弟子入りして実戦的な指導を受けていた。中には独学で学んでいた画家もいたが、彼らの先生は、先人の名画だった。これは、現代でも同じだ。伝統的な絵画の基礎訓練が、本当に絵画制作、特に、現代アートを目指す作家にとって必要なのか、と言う問いかけとも関係するだろう。結論はまだ出ていない。そのため、美術学校では、まだ石膏像が設置してあり、人物デッサンも行なわれている。どうして、今でも伝統的基礎訓練を捨てないのか、と言うと、ある種の感覚ではないかと思える。基礎訓練を捨ててしまう事への本能的な恐れだ。作品は、想像ではない。現実の存在となる実在が伴うのが創造だ。では、現代アートは、本当に創造だったのか。例えば、モナリザの顔にヒゲを描いて自分の作品としたデュシャンは、モナリザの威を借りて自分の作品としただけだ。自分で描いた女性の肖像画にヒゲを描いたと言うならオリジナルの作品と言えるだろうが、過去の名画を借りて、そこにヒゲを描き加えただけでは、作品化できていないと言われても仕方がないだろう。どうして威を借りるのか。自分で描いた女性の肖像画に自分でヒゲを描いても大したインパクトは感じないからだ。大量生産品を作品だと言い張ったレディメイドもそうで、やはり既製品の威を借りている。そこには、想像はあっても創造はなかった。何も創ってはいないのだ。色の3原色の色彩理論と同じで、想が立ち実らずだ。思いはあるが実現はされない、と言う事だろう。現代アートの世界では、画家と評論家がタッグを組んで自分達の作品をプレゼンする事が良くあった。それが政治的に利用されたと言う黒歴史もあるのだが、それを除いても、画家と評論家のタッグは、評論家を勘違いに導く原因になっていったように思える。一部の絵画スタイルや、一部の画家だけに肩入れするような評論で、世論をコントロールしようとする。絵画全体を見渡して、冷静な分析をするのならともかく、そこには欲が溢れていた。純粋で崇高な絵画を評価すると言う欲にまみれた存在だったのだ。純粋、崇高さえ自分の欲のために利用する。言葉だけの世界に絵画は翻弄されていく。形而上の世界をあまりに高く評価し過ぎた夢見る少年は、実は欲にまみれた俗物だったと言う事だろう。現代アートは、形而上的世界から抜け出せていなかった。それは、自分でオリジナルの作品を創造できていない事を意味する。だが、形を持てばそれは俗物になる。純粋で崇高な絵画は空想の世界でのみ存在し得るのだろう。作品とは、それが何であれ即物的なものだ。何らかの形を持った時、それは、もう崇高でも純粋でもなくなってしまう場合がほとんどだ。だが、形を持っていながら、作品として実在し得ていながら、崇高さを感じさせる作品は存在する。それが、過去の名画だ。通俗でありながら崇高、風俗でありながら普遍性を持つ作品。通俗が創造になる。過去の名画は芸術として生まれてきた訳ではない場合が多い。芸術と言う概念すら無かった時代の作品。それでも、優れた作品として実存している。このパラドックスを現代アートは手に入れていなかった。形而上の世界はカオスだ。そこには本質なんてものは無い。地上の楽園を夢見た少年は、いまでも、夢を見続けているのだろうか。通俗は現実だ。だが崇高は空想だ、本質も空想だろう。形而上が形而下よりも高見にある概念だと言うのも空想だ。絵空事の世界は、まさに絵画のテーマに相応しいものだと思えたのではないだろうか。現代、その揺り戻しが起こっている。具象絵画が注目されているのも、その流れの中にある。そして、印象派の画家達が出会った通俗性と新たに向き合い始めている。通俗は実在であって、実在は通俗性を含んでしまう。それは濁りでもあり、純粋が本当に純粋として存在し得るのは想像の世界だけ、と言う事に人々は気付き始めてしまった。通俗を排すれば純粋になる、と言う考え方はあまりに幼稚で、実際にはそうはならなかった。形而上と形而下は地続きであり分断された世界ではない。それは通俗と純粋が繋がっているものと言う認識と同じだ。色の3原色だけの混色では不自然さを感じ、黒を使うと自然に見える。無彩色の適度な濁りこそが美しさの源泉だった。実際に絵の具を混色すればどうしても濁ってしまうし、発色も鈍る。それは当たり前の事で、濁りを排する事で作品が上等になるなんて事もなかった。黒を使えば、確かに色は濁るし鈍る。だが、それが、美しくないのか、と言えば、そうではない。絵画的な美は、純粋な色だけを高く評価する世界を目指してはいないからだ。色の純粋さは色の世界の話しであって、絵画の世界の話しではなかった。絵を描くと言う事は、イメージの物質化であり、即物的である事からは逃れられない。実際に絵を描く場合、胆に命じておくべき事だろう。純粋からは純粋は生まれないし、崇高からは崇高は生まれない。普遍性からは普遍性は生まれないのだ。作品は、何らかの物質化だからだ。物質化したとたんに通俗性が入り込んでしまう。現実の作品は、その置かれている環境によって、その作品が上等な物に見えたり、ゴミに見えたりもする。作者の意図とは関係なく時間や様々な環境的要素に影響されて変化し続ける。作品が物質としてそこに存在してしまうからだろう。それが傑作のヒントであると共にゴミになる原因でもある。物質化されれば、ある作品は傑作になり、ある作品はゴミになる。その違いがどこにあるのか。普遍的価値、を持つ作品として上げられる過去の名作には、一体どんな秘密が隠されているのだろうか。そう言った作品を破壊してしまえば、文化そのものが途絶えてしまい深みに至る道筋も消え失せてしまう。それがゴミの山の正体だ。人は、大量生産された製品の中からも傑作を見つけ出し、大切に後世に伝えようとする。そんな人間の心根を理解し共鳴するところから道筋の探求は始まるのだろう。



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