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2015年03月30日16:46

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フォルムの実際 19世紀 ブグローVS印象派

フォルムの実際 19世紀 ブグローvs印象派
 日本では、サロンと印象派の対立を強調されるが、サロンが対立していたのは印象派だけではない。官展であるサロンは、ダヴィッドそしてアングルの新古典派の流れを色濃く受け継いでいた。ローマ、ラッファエロ崇拝主義とも言え、ラッファエロをダヴィンチやミケランジェロよりも高く評価し、その後の西洋絵画の流れをあまり鑑みず、狭い価値観によって西洋絵画を語ろうとする一派だ。何々派で括られる場合、他の派と価値観が対立している場合が多く、どの派が正しい、正しくないと言うようなものではない。これは、印象派も同じだ。それぞれの価値観の元に絵画を制作していたに過ぎない。今日でも、どの派を支持するのかは自由で、あくまでも個人の好み程度の話し。ただ、新古典派と印象派は、真逆の方向性を持っていて、19世紀のフランスに両派が存在したと言うのは、新古典派の揺り戻し現象の1つだろうと考えられる。偏った考え方は、対立する考え方から強いプレッシャーを受けてしまうものだ。新古典派は、ラッファエロから時代を進まそうをしないために、進歩の停滞を起こしてしまい、新古典派の絵画は、全てが嘘臭い、と強烈な否定を引き込む事になってしまった。新古典派の流れを強く受けているサロンが、印象派を否定したが、逆に、印象派はサロン系の絵画を否定した。価値観の対立によってお互い否定し合っていたのだ。ここまで対立が表面化してしまったのは、新古典派の偏狭な考え方があったのは事実だろう。状況から見て、写実派のクールベが、当時のフランス絵画の問題点に危機感を感じており、少数派であった印象派に可能性を見いだしていたようで、モネと親交を持っている。印象派が生まれてきた頃のサロンは、アングルが生きていた頃の新古典主義原理主義は、さすがに影を潜め、ロマン派や写実派、バルビゾン派との統合を模索し、折衷派とも言われるようになってきていた。統合が進むサロンの代表的画家がブグローだった。新古典派の流れを色濃く残していたブグローが印象派の絵画に興味を示す事はなく、あくまでもアカデミックな絵画を追求していた。あのクールベが印象派に好意を持っていたのに比べて、この頑固さは、アングルと通じるものがあるだろう。だが、印象派が人気を得てくるとサロン系絵画への風当たりが強まってくる。印象派に加担する評論家も増えて、それまでとは逆にサロンを辛辣に批判し始める。そんなおりに、ブグローが印象派と敵対していた、と告発するような評論を書いた者もいた。この評論が、ブグローが西洋絵画の歴史に沈んでいく原因の1つになったのではないか、とも言われている。印象派の人気や評価が定着してくると、その後の、ポスト印象派が評価され、アカデミック教育の中での西洋絵画教育は、セザンヌに大きく時間が割かれるようになり、サロン系絵画は、さわり程度にしか扱われなくなっていく。意外に思う人もいるかも知れないが、この時点で、アカデミック絵画は、サロン系絵画から、セザンヌやゴッホへと変わっていったのだ。誤解している人が多いが、アカデミック絵画は、古典絵画を意味するものではない。印象派やポスト印象派が学術的に評価されれば、それがアカデミック絵画となっていくのだ。サロン系絵画は、アカデミック絵画として扱われなくなり、時代から消えていった。印象派以降の西洋絵画の流れは、良くご存知だろうと思う。ブグローが、アンチ印象派の画家であった事は事実で、口の悪い印象派のドガは、ブグローを痛烈に批判し揶揄していた。新古典派の流れを汲むサロン系の絵画に対する批判は、的確なもので、致し方の無い面も多々あった。当時のフランスでは、官展であったサロンしかなく、そこから閉め出されれば画家として成功するのは非常に厳しかった現実があった。サロンの考え方は、共和制を掲げるフランスの政治理念にも適わず、旧態依然としたサロンへの批判は正当なものだった。その後、サロンは民営化され、分裂し、いろんなスタイルの絵画を受け入れる公募展が複数できるようになる。いろんな主張、表現を尊重すると言う方向性が、現代にも繋がる民主主義の根本にもなっている。サロン系の絵画は、人気がなくなって美術館の目玉にはならなくなったが、19世紀当時、高い評価を得ていたブグローの作品は、作品の歴史的意義を認められ美術館に収蔵されていた。印象派と敵対していた悪役のボス扱いだったブグローが再評価されるのは、ひょんな切っ掛けによるものだった。再評価を目論んだものではななく19世紀のサロン系絵画を紹介すると言う学術的企画展示だったようだ。そこでブグローの絵画が紹介された。だが、そのブグローの絵画を観た現代の人々が興味を示し始める。現代アートが原形を止めない程デフォルメされ過ぎ、その反動としてフォトリアリズムが台頭してきており、フォトリアリズムも含めた写実主義絵画の見直しが進んでもいた。19世紀のサロン系絵画には、現代の西洋絵画が失った具象表現があった。冷静にブグローの絵画が研究され始め、西洋絵画の教材として扱われるようになっていく。19世紀当時の熱に浮かされたようなラッファエロ崇拝ではない。当時のサロン系絵画には、表現への縛り等、問題点も多く、そのまま再評価されている訳ではない。ブグローには、教育者としての側面があり、エコール デ ボザールの教授として熱心に絵画を教えていた。女性の入学が叶ったのもブグローの時代だ。印象派の画家達は、指導者ではなく、後継者を積極的に育成した訳ではなかった。そのため、印象派の描法は、実は、薮の中なのだ。ブグローが教えていた西洋絵画の基礎教育を見直そうと言う流れがあり、美術学校で、当時の教育が再現され始めた。日本で教えられていた西洋絵画の基礎教育も、サロン系の流れにあるため、多少日本流にアレンジが加えられているが、ブグローが教えていた西洋絵画の基礎教育に近い。街の絵画教室でも、当時の流れを汲む基礎教育が現代でも行なわれており、日本では、広く普及している。デッサン等の西洋絵画の基礎教育は、19世紀のサロン系の流れを汲みながら、油彩画になると急に印象派以降の描法になってしまい、基礎教育と油彩画描写の断裂が激しく、日本では油彩画の技法がスムーズに展開されないと言う問題が起きてしまっていた。19世紀当時のフランスの絵画が、断裂を含む展開になっており、主流だったサロンから、印象派の隆盛、そしてサロン系絵画の衰退の流れを、そのまま日本の西洋絵画は受け継いでしまっているのだ。日本には、サロン系絵画のノウハウは導入されたが、印象派の画家達は、教育者ではなかったため、印象派のノウハウや描法が正確には日本に伝わらなかった。印象派の絵画から、その描法を分析して取り出す作業は、非常に困難で、それに成功したとして、画家が囲ってしまい、あまり一般化されない傾向がある。企業秘密になってしまうのだ。そのため、一般の人達は、色彩分割だの筆触分割だので誤摩化されてしまっている。筆触分割と言われるともっともらしく聞こえるが、実際には、筆に絵の具を付けてキャンバスに塗る程度の意味しかなく、さらに深く知るには、自分で解析して印象派の作品の中からサルベージするしかない。なかなか難儀な話しなのだ。モネの絵画も、全て屋外の写生で描かれていると思い込んでいる人もいるだろうが、モネは、連作を描くようになると、屋外で色彩粗描を行ない、アトリエで時間をかけて仕上げると言う描法を取るようになる。長い時には、1年がかりで連作を仕上げていたそうだ。つまり、その時点で、写生でもなくなるし、即興描写でもなくなる。ビビッドな色彩をあまり使わないグレー系の作品も数多く、印象派の代表的画家と言われるモネでさえ、印象派の説明は部分的には正しいのだが、それでは説明し切れない部分が大変多いのが現実だ。つまり、印象派の研究は、まったく不十分だと言う事だ。教育者としてのブグローの再認識と印象派のさらなる研究が必要だろう。








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