26日、ハイヒールのはてな?は、昭和に輝いた巨星達の記念館。
阿久悠、1937年、淡路島に生まれる。明治大学に進学するが、当時、第一次安保闘争が勃発。番組で紹介されていた学生運動は、この第一次安保闘争の事。昭和34年、1959年から1960年頃に激しくなっていたようだ。主に左翼煽動で行なわれたと言われている学生運動。冷戦下の日本で、ソ連の息のかかった左翼活動家が暗躍していたようだ。ただの学生運動と言うよりは、日本とアメリカとの分断が目的で日本の左翼革命の地ならしとも取られた。朝鮮戦争が休戦したばかりで、ソ連は、アジア、そしてヨーロッパへの野望を剥き出しにしていた時期でもある。左翼思想へシンパシーを感じているマスコミも多数おり、当時の状況としては、冷静で分析的な情報の不足もあって、多くの日本国民は、何が起こっているのか把握しかねていたと言うのが実情だった。ネットには、間違った情報も流れてはいるが、多くの情報に接する事で、判断の材料は増え、ネットが普及する事で、煽動的情報操作は、行い難くなっているとも言われる。阿久悠は、学生時代、この学生運動に遭遇するのだが、ノンポリを決め込んでいたようだ。思想的に中立な立場の学生にとっては、安保闘争は、迷惑な話しだったのだろう。当時、1951年にサンフランシスコ平和条約が締結されたばかりで、日本は敗戦国と言う辛酸を舐めさせられていた。それも受け入れた上に、西側諸国の一員としてアメリカに協力して行こうと言うのが日本政府のスタンスだった。現実的対応と言うところだろう。安保反対闘争の裏にはソ連がいる、と言うのが日米の認識であり、東西冷戦の延長線上に、学生運動がはまってしまったのだ。こうなれば、妥協点は無くなってしまう。学生達は、知らぬ間に戦争をしていた事になってしまった。それを意図しなかった学生も多かっただろう。1970年の第二次安保闘争の後、学生運動が急激に下火になって行くのだが、その実像が見えてしまったからではないだろうか。阿久悠にしても、この騒動は、大きなインパクトがあったようで、状況を冷静に見つめる事に専念していた。ノンポリと非難された事もあったのかも知れないが、本人は、それが良かったのだと、後に述懐していたそうだ。記念館は神田の明治大学に開かれた。
円谷幸吉、東京オリンピック、アベベが優勝したオリンピックマラソンにおいて、3位、銅メダル獲得と言う快挙を成し遂げた青年。その後、マラソンで、何人もの日本人メダリストが誕生するが、当時は、マラソンでメダルを獲得するとは思ってもいなかったようだ。いろんな要素が絡まって、人生最高のレースがオリンピックの舞台で出来た円谷幸吉だったが、このメダル獲得で、次のオリンピックへの期待が大きくなり、責任感の強かった円谷幸吉は、国民の期待に答えようとする。だが、状況は、それを許さない方向へと流れていく。円谷は、自衛隊の体育学校に所属しており、コーチ役の畠野とコンビを組んで練習していた。それに校長が理解を示し特別待遇で練習ができる環境が整っていた。オリンピックでの銅メダルは、このような好環境も影響していたようだ。ところが、自衛隊体育学校の校長が変わると状況は一変する。オリンピック用の特別待遇はなくなり、練習環境が変化、その上、校長は、練習の邪魔になると円谷の婚約にも反対する。この横暴に抗議したコーチ役の畠野は、転勤させられてしまう。婚約は破談し、重要なコーチを失った上に、練習環境も激変、練習をコントロールしてくれるコーチの助言の無いまま、オーバーワークを繰り返し、椎間板ヘルニアを発病する。その結果、オリンピックで戦えるような状態ではなくなってしまった。当時の日本は、スポーツに対する科学的なアプローチがまだ十分ではなく、旧態依然とした考え方も支配的だったのだ。オリンピックで戦えない状態となってしまった円谷幸吉は、死を選んでしまう。27歳の若さだった。本人の書いた遺書には、家族への感謝の気持ちと、家族と一緒に過ごしたかった、と書かれていた。家族の愛に包まれて育った明るい青年、それが円谷幸吉の実像だったと言う。円谷幸吉記念館が、地元須賀川にある。
坂本九、1985年、日本航空123便が、御巣鷹山に墜落する。この航空機に、坂本九も乗っていた。享年43歳、上を向いて歩こうで、アメリカビルボードランキング1位獲得。キャンペーンを張った訳ではなく、アメリカのラジオDJが何気にかけた、坂本九の上を向いて歩こう、が、視聴者から支持され、みるまに全米に広がっていく。アナ雪もそうなのだが、やはり、特別な作品と言うものはあるのだろう。英語の歌として1位を獲得したのではなく、日本語の歌として多くのアメリカ人に支持されたのだ。レコードもミリオンセラーになる。坂本九のもう1つの顔が、ボランティアだった。北海道で、番組を持つと同時に、チャリティショーにも参加し続けていた。欲の渦巻く芸能界では、こう言ったボランティア活動を売名と陰口を叩く人もいたようだ。それでも、坂本九は、福祉活動に積極的に参加、信仰心も強く、福祉活動への興味は、本来の性格からくるものだったようだ。アメリカで高く評価されたのも、坂本九のこのような人格が影響しているのではないだろうか。記念館は、地元神奈川ではなく、北海道にある。北海道で、長く番組を行い、その中で、福祉活動にも参加、坂本九の事故死を知った、北海道の人々が、寄付金を出し合って、記念館を設立、今もボランティアが運営している。
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